人間はどこまでグローバル化に耐えられるか:リュディガー・ザフランスキー


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本書ではグローバル化の人間にもたらす影響が整理、検討される。よい整理になっており、ページ数も少ないので読みやすい。本書のはじめに提示される問いは次のようなものである。
「というのも、世界社会と世界史がこれまでになかったほどにグローバル化に取り込まれることで、不安に満ちた疑念、あまりにも多くのグローバル化が、あるいはあまりにも多くの間違ったグローバル化がなされているのではないか、いま行っていることが正しいことなのかという疑念も目覚めてきたからである。」(15)


本書のはじめ数章は現状の確認にあてられている。いわく、人間が不足を理性によって埋めあわせる=第二の自然を作る動物であること。現今のグローバル化はネットワーク化、それは個人的なレベルでは想像的に現れていること。そしてグローバル化の地盤のうえでイデオロギー的言説としてのグローバリズムが生じていること、である。
(グローバリズムについて。グローバリズムイデオロギーとして働く、世界の統一像である。

イデオロギーとしてのグローバリズムは、世界社会が実際のものよりも統一しているようなイメージを作り上げ、特定の地域における同質性の発展の程度に応じて、他の地域の世界的出来事から切り離されるというドラマチックなプロセスが起こる事実はしばしば排除される。

それは世界のあるべきとされる規範的像である。現実的な諸差異を認めないので、それ自身は現実的なものでも記述でもない。

というわけで、グローバル化の地盤の上で新しい意見の衝突が起こっているのだが、これと付き合う適当な態度はまだ見受けられない。イデオロギーとしてのグローバリズムは、非同時的なものや発展の差異の増大を認めようとせず、認めるとしてもそれを単なる意向過程の現象としか見ない。その限りでグローバリズムは現実的ではない。

次いで、三つの例が紹介される。ネオ・リベラリズム、アンチ・ナショナリズム、もう一つは、説明しづらいが、地球をひとつの運命共同体としてとらえ、国家間または人類の連帯を要請するものである。)

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続いて歴史的な考察が為される。哲学史を人間間の争いから捉えなおしている。
例えば、人間間の争いへの基礎的な洞察として、プラトンから「差別への激情的な要求」である「ティモス」という概念が導入される。(ティモスは社会的に組織され、愛国心を生み国家間の対立へと構成される。)プラトンには矛盾する、人類的統一への意思と、現実的な争いが不可避であるという認識の両方が見出されるという。
(この両者の調停にプラトンがとった方法は、「自分自身との一致にいたる術をしめ」し、他者に付き合うという処世術(45)である。つまり現実的にはわれわれは闘争を生きるしかないということ。)
闘争の歴史と理想としてのその彼方というビジョンは、ヘーゲルの歴史の弁証法と精神にもまた見出される。そして、ロマン派の熱狂において、シラーの人類の連帯が登場する。こ「われわれ」の拡大としての人類である。
ただし、これらの像はみな想像的な像である。それは夢想を超えず、思考において堂々巡りする。
(宇宙からみたような)「スーパー・ヴィジョンの中にのみ行動能力のある単数としての「人類」があるのだが、実際にあるのは複数の人間だけである。人間の群れから「人類」という行動主体を作り出しうると想定するのはあらゆる歴史的経験に矛盾する」(50)

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そのため、ひとつの主体のひとつの意思ではなく、複数の主体の世界における調和が必要なのである。カントの世界連邦論が確認された後、カントが依拠している理性概念が説明される。それは本書の用語でいうティモス(差別)的情熱を持ち込んだ理性であり、自己保存を求める動物的悟性とは区別される。

この理性は自己保存に訴えるだけではなく、誇りにも訴え、人間の義務に要請されるなら、場合によっては己のみを犠牲に供するものなのである。この理性は有用性に使えるものではなく、尊厳に仕えるもので、そのかぎりで実際にティモス的な性質のものである。

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このような理性の普遍性が人類の共通理解の可能性なのであり、この理性を尊重する人間は世界市民と呼ばれる。この理性は宗教の支配力の消失を求めるのである。ただし、現代においては反対に宗教が再び大きな力を持ちつつあるが、それはわれわれをふたたびグローバルなものへの問いに引き戻すのである。

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18世紀の政治の民衆化は、それまでの専制政治とは異なり、大衆をそれぞれ政治の主体とした。かつて全体性という意味をになっていた宗教の役割が政治へと移される。つまり世俗化。19世紀にもう一つの変化があった、と著者は指摘する。世界の経済化がそれである。つまり、何とでも交換可能な、世界中をめぐる貨幣。現代においてはこの二つが世界を覆い、貨幣は世界を交換可能性という点で均質化し、政治は思考を戦術/対抗戦術に狭めてしまっているという。(74)ここには神や自然が担っていた超越的/現実的な秘密は存在しない。そのため、われわれは世界の狭さに悩まされている。それが悩ましいものであるのは、おそらくグローバリズムが過大な要求(79)であるからだろう。我々は過大な要求に常に迫られている。

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本書で指摘されているのは、つまり、我々の認知の変化である。前グローバル的な社会のモデルは以下のようなものであった。ここで「感覚圏」といわれるのは、われわれの感覚が届く範囲であり、「行動圏」といわれるのは、われわれが責任を取りうる行動の範囲である。

刺激は何らかの仕方で逸らされねばならない。もともとは行為の反動の形のものである。行為は刺激に対するしかるべき答えである。それゆえわれわれが刺激を受ける感覚圏も、刺激が逸らされた先の行動圏も、もともとは対等に並列している。

これが前近代の状況であるけれども、メディア刺激が発達した現代においては、この「対等な並列」は崩れてしまっている。遠くは近くになり、世界は「類似性によって打ちのめされ」ている。われわれの感覚圏は行動圏の及ばないほどに拡大してしまっている。これが我々の不安の原因である。なぜなら、グローバル化=ネットワーク化によってわれわれの問題でない問題は無いからである。つまり最初の問いは、グローバル化=不安の原因として捉えなおすことが可能だろう。では、著者はここからどのようにして自衛しようと試みるのだろうか。

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われわれの日常的な生活は、世界的な不安を抱えながら、それを個人の生活と分裂させることで成り立っている。それはある種の最小限であり、著者の望むところではないだろう。著者は境界を個人化すること、個人に免疫を持たせることに希望を持っている。
その詳細が具体的に書かれているわけではないが、端的には、自分の生活を自身で作り上げる能力である「教養(ビルディング)」と、労働の資格を得る職業的教育である「ausbildung」の両方を獲得し、自らの生活圏を知り、自らの境界を知ることであるとされる。
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著者が免疫といっているのは、刺激の取捨選択であるけれども、われわれはそれがいかに難しいものであるかについても知っている。刺激に対する意識の無力さについては神経症者の例もあるし、また、自らの時間と世界史的時間との調停、といっても、それが具体的にどのような生活なのかというのははっきりしない。そして、告白すると、本記事をまとめる言葉が思いつかない。いささか居心地が悪いが、ここで記事を終えることにする。