「不気味な笑い」ジャン=リュック・ジリボン、附:「砂の女」安倍公房


不気味な笑い フロイトとベルクソン

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本書ではベルグソンの「笑い」とフロイトの「不気味なもの」の両読解を通じて、「夢と笑いの隠れた照応」を明らかにすることがめざされている。この両者を媒介する役目を果たしている概念がベイトソンが精神の生態学「遊びと空想の理論」中で語っている「枠」である。

枠とは、ベイトソン自身の説明ではコミュニケーションの前提のようなものであり、態度だといわれている。また、枠で囲うことによって、枠内のものに価値(や意味)を与えるものでもある。枠が変化することによって、同じ素材でも価値が変化することもある。枠は思考の素材に意味づけを行う。(枠の例としては、「遊び」「映画」「言語」「面接」など)
本論で著者は枠と枠化される素材との間の「関係」の差異によってカフカルイス・キャロルの文学が分析できることを示唆した後、笑いと不気味なものの差異を位置づける。

その差異は、「不気味なもの」は枠の消失の経験においてあらわれるものであり、反対に笑いをもたらす「滑稽さ」は、その枠を「遠い水平線のように」残しつつ、枠の消失を観察することによって世界と枠との差異を示すこと、によって生ずる情動、と要約できるように思える。

枠化を遂行するものは、言語である。言語は「枠化の能力、つまり名づけ、分類し、評価する能力」である。また、枠化される素材はベルクソンに「生」と呼ばれているものである。これは言語以前のものなので、明確な説明はなされないけれど、枠の消失による不条理の例として、カミュサルトルが引かれている。

本書では笑いが肯定的に位置づけられている。なぜ肯定的なのかといえば、それは意味(また枠化=意識)の弱さを明らかにしつつ、その弱さを振り払うことを可能にするから、である。

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本書の内容は以上のように要約できると思う。本書は訳者解説も含めよく纏まっていて、ブログに書くことが無く困っていた。しばらくして、「砂の女」の後半に登場する往復切符と片道切符の比喩をこの文脈で読んでみることを思いつき、そのために「精神の生態学」を読み返していて更新が遅れた。以下は、その線で砂の女を読解するものである。砂の女については、確かに以前書いている(参照)が、そこではこの比喩についてはっきりとした答えが出せなかった。

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まず、精神の生態学からみていく。ベイトソンはそこで学習のレベルをいくつかに区別している。(「学習とコミュニケーションの論理的カテゴリー」)それは
ゼロ学習:刺激に対する反応が一定しているケースの名称。ベイトソンの例。「工場のサイレンから、いま正午だということを"learn"する」。また、コンピュータの「学習」など、「試行錯誤によって集成されることのない一切の行為が立つ領域の名」
学習Ⅰ:同一選択肢集合の中で選択されるメンバーが変更されるプロセスの名称。パブロフの行った古典的条件付けにおける学習など。
学習Ⅱ:選択肢集合自体が変化すること。コンテクストの変化に関わる学習。ある環境において、コンテクストを選択することを学習すること。コンテクストの分類を働きとするシグナル(コンテクスト・マーカー)の学習。また、この(学習Ⅱの)レベルで生じる矛盾が、「ダブル・バインド」。
学習Ⅲ:選択肢集合が決定されるシステムが変化するプロセス。つまりコンテキストのコンテキストの段階での変化。「学習Ⅲは、これら"身にしみついた"前提を引き出して問いただし、変革を迫るものである。」ベイトソンが挙げている一例。
学習Ⅳについては、省略。

続いて、これらの学習のレベルと「枠」との関係を明らかにする必要がある。枠は、まず「メタ-コミュニケーション」的なメッセージである。それは具体的には、コミュニケーションが従うコンテクスト、コミュニケーションが行われる関係を決定している。よって、枠を示す行為(信号)⇒「コンテクスト・マーカー」、枠⇒学習Ⅱといえる、と思う。
以上を確認したうえで、「砂の女」に移る。

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砂の女において、往復切符とは、それを持つことがある安心(「猛獣映画や、戦争映画のたのしみは、たとえ心臓病が悪化するほど、真に迫ったものであったとしても、ドアを開ければすぐそこに、昨日の続きの今日がまっていてくれるからなのだ……」新潮文庫173ページ)を与えているように、笑いを保障する「枠」である。反対に片道切符とは、「昨日と今日が、今日と明日が、つながりをなくして、ばらばらになってしまった生活」(同155)である。つまり、そこでは枠が消失している。枠の消失は、学習Ⅱの危機であり、学習Ⅲを迫るものである。先の論文で、学習Ⅲの名を与えられた習慣形成は、以下のものである。

(a)学習Ⅱのカテゴリーに入る習慣形成を、よりスムーズに進行させる"能力"なり"構え"なりの獲得。
(b)起こるべき学習Ⅲをやりすごす抜け穴を、自分自身でふさぐ能力の獲得。
(c)学習Ⅱで獲得した習慣を自分で変える術の習得。
(d)自分が無意識的に、学習Ⅱをなしえる、そして実際行っている存在であることの理解の獲得。
(e)学習Ⅱの発生を抑えたり、その方向を自分で探ったりする術の習得
(f)学習Ⅱで学習される学習Ⅰのコンテクストの、そのまたコンテクストについての学習。

(「精神の生態学」日本語版432p)
もちろん、学習Ⅲをやりすごす抜け道と学習Ⅲの区別は明確でなければならない。学習Ⅲは単純な学習Ⅱの変化ではなく、その変化の学習(容易に行われるようになること)でなくてはならないだろう。


それでは、「行き先も、戻る場所も、本人の自由に書き込める余白になって空いている」往復切符とはなんだろうか。主人公:仁木が置かれていた状況は、村で共有されている「枠」と仁木が以前保持していた枠が絶えず衝突し、正しさ、価値、意味といった基準を失った状況だった。(ダブル・バインド的な状況といえると思う。)往復切符とはある習慣、学習Ⅱが正常に機能している状態である。また片道切符はその反対である。仁木が小説を通じて行っていた試みは、「起こるべき学習Ⅲをやりすごす抜け穴」を作ろうとしていた、と考えられる。なぜなら、仁木がもとの生活に戻れば、そのことによって、学習Ⅱの変化≒学習Ⅲの端緒は断たれるからだ。付言すると、村にたどり着いた「女」、砂の底の家に留まることを選んだ女性は、学習Ⅱの成果である、コンテクストのコンテクストを一度きり変化させることで、それ以上の変化を免れたものと思われる。つまり、これも同様に「起こるべき学習Ⅲをやりすごす抜け穴」といえる。「歩かなくてすむ自由」とは、その「抜け穴」を見つけたことだろう。仁木の最後の変化はそれらとは明らかに違う。それでは仁木が学んだのは学習Ⅲなのだろうか。
ベイトソンは、学習Ⅲを経た人間の精神について、以下のように推測している。

しかし、習慣の束縛からの解放という以上、それが"自己"というものの根本的な組み換えを伴うのは確実である。"私"とは"性格"と呼ばれる諸特性の醜態である。"私"とは、コンテクストのなかでの行動の仕方、又自分がそのなかで行動するコンテクストのとらえ方、形づけ方の「型」である。自分であるところのものは、学習Ⅱの産物であり、寄せ集めである。Ⅲのレベルに到達し、自分の行動のコンテクストのコンテクストを眼中に収めながら行動する術を習得していくに連れて、「自己」そのものに一種の空しさ(irrelevance)が漂い始める。経験が括られる型をあてがう存在としての「自分」が、そのようなものとしてはもはや「用」がなくなってくるのである。

学習Ⅲが、きわめて創造的に展開した場合、矛盾の解消とともに、個人的アイデンティティがすべての関係的プロセスのなかへ溶出した世界が現れることになるかもしれない。

学習Ⅲのレベルにおける変化は、概念のあらわれ方自体の変化、つまり世界の変化としてあらわれるのではないか、と予測されている。ここで、我々は砂の女のラストシーンの意味に気づくことができる。彼はモザイク状のものの見方からより巨視的に、自らの視野が変化したことに気づく。(「これまで彼が見ていたものは、砂ではなくて、単なる砂の粒子だったのかもしれない。」224ページ)それに伴って女への態度や、脱出への価値付けも異なってくる。我々は脱出しなかったことの「意味」を問うべきではないのだろう。ジリボンが示唆したように、意味とは「枠」(言語)つまり学習Ⅱのレベルでの生成物であり、仁木はいまやその意味の問いを超えているからである。本作品の最後で描かれているのは、意味の無化の経験である。学習Ⅲの認識の例として、ベイトソンはブレイクの詩を引用している。最後にそれを引用する。

ひとつぶの砂に世界を映し、
いちりんの野の花に天国を除き、
かた手のひらで無限をつかみ、
ひとときの中に永遠をとらえる