カーテン:ミラン・クンデラ


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本書ではミラン・クンデラの小説論が書かれている。このタイトルの意味は一通りは、すぐに分かる。カバーに訳者あとがきからの引用が印刷されているように。

「カーテン」とは、人生という散文を欺瞞的に美化もしくは聖化し、覆い隠している諸々の宗教、イデオロギーや、歴史・社会・文化的な伝統・教育などによる、あらゆるまことしやかな世界解釈・認識のことである。そんな人為的なカーテンを引き裂き、人間の本質と不可分の喜劇性、実存の未知の部分、あるいは謎を明るみに出すのが小説家のモラルだとクンデラは主張している。

整理されていて網羅的である。つまり、カーテンとは世界解釈の方法であり、認識を行うときの背景信念である。そして小説はそれを描く人間のモラルに関わっている。少しだけ見ていこう。

2 歴史

クンデラは四つの歴史を区別している。つまり、人類や国家の歴史、技術の歴史、科学の歴史、芸術の歴史。(23)まず、ここではこれらの違いを確認しておこう。
1 人類の歴史は出来事の歴史である。また、それ自身いかなる価値規範も持たない故に、繰り返しを許容する、「悪趣味な」歴史である。この繰り返しとは、つまり・・・

共産主義体制の内破のあと、資本主義の「残酷で愚劣なもの」すべてが回帰してくる。しかしこれはただの反復ではなく)この新しい経験に更に興趣を添えているのは、この経験がまえの経験を生き生きと記憶のうちに保っていることであり、この二つの経験が衝突して、まるでバルザックの時代のように、<歴史>が信じがたい混乱を舞台に乗せているということだ。

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この混乱の中に、一つの哀しい、そして滑稽な事件がある。なぜ滑稽なのか。それは反復に関わる、つまり、ゾラの「ゴリオ爺さん」に描かれたような出来事が、ほとんどそのまま再現されているから、滑稽なのだ。しかしそれは人間に属する反復なのではない。この反復を行うのは「歴史」なのである。

しかし彼は何かを繰り返したわけではまったくない!同じことを繰り返したのは<歴史>のほうなのだ。そして同じことを繰り返すには、知性も羞恥心も無く、いかなる趣味も持っていないことが必要である。私たちを笑わせたのは<歴史>の悪趣味だったのだ。

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2 技術の歴史は、非人称的である。それは例えば人間が行った発明(エジソンの電球など)の歴史であるが、特定の個人には依存しない。(エジソンが発明しなかったら、他の人が発明しただろうから)
3 科学の歴史は、進歩の性格がある。新しい方法が発明されると、前の方法は忘れられる。技術の歴史と似ていて、混乱を招くけれど、主題から外れるので、この混同はひとまず置いておこう。
4 芸術の歴史。
それは技術の歴史と異なり人称的である。「もしロレンス・スターンがどんな「ストーリー」もない小説を書くという気まぐれな考えを抱かなかったとすれば、誰も彼に変わってそんなことをしなかっただろうし、小説の歴史は私たちが知っているのとは別のものになっていただろう」
それは科学の歴史と異なり、進歩とは何の関係も無い。「それは改良、改善、向上などを含意せず、未知の土地を探索し、地図に書き込むために企てられる旅に似ている」
それは人類の歴史と異なり、価値を含意している。「出来事の歴史ではなく、価値の歴史(…)」
この価値は常に「個人的な賭」であり、またこの賭けは客観性へ向かおうと努力し続けている。つまり、個人的でありつつ、客観性を求めている。そしてクンデラが本書の中で幾多の文学作品を取り上げ、それぞれの「発見」を評価するとき、彼はこの価値の歴史を我々に示している、といえるだろう。
価値を含んでいるから、芸術の歴史は我々と共にあり、同じ理由で、それは繰り返しを許容しない。

3 世界文学

クンデラは第二部で二つのコンテクストを区別している。それは「小さな」国民的なコンテクストと、「大きな」超国民的なコンテクストである。(45)クンデラは、後者のコンテクストをまた世界文学のコンテクストとも読んでいる。そしてそちらにおいてより多く、「小説の美的価値、すなわちその小説が解明しえた実存のそれまで未知だった側面」、ならびに形式の革新性を知る事ができる、という。小説の美的価値と形式とは密接に絡み合っている。
その例として、本書では「トリストラム・シャンディ」があげられている。スターンがこの小説で採用した形式は、その内容においてストーリーの全面的な格下げ、その小説自体の無意味さを我々に提示したが、まさしくそれによって、この無意味さとわれわれが実存する境遇との類似を問うことを可能にしたのである。(20)
彼が「ドン・キホーテ」の価値を認めるのも同じく、実存を示す形式に関わっている。その形式。「セルバンテスは、(…)伝説上の人物を下のほうに、すなわち散文の世界に降りさせたのだ。」
ドン・キホーテの「いかなるパトスも欠いている」死の場面。この全く英雄的でない死は、小説の主人公と叙事詩の英雄との違いを我々に示す。叙事詩の打破されてもなお偉大な英雄とは異なり、ドン・キホーテが偉大さ無しに打破されることによって、我々全ての人生のあるがままの姿である敗北をセルバンテスは、我々に提示したのである。そして、散文はその唯一残された道、「人生を理解しようと努めること」(17)つまり実存を解明することへと向かうだろう。

4 小説家

いま、我々は、本書でクンデラは芸術の歴史を語ろうとしていること、そして彼が価値というときの価値とはどのようなものか、ということを知る事ができたと思う。そして、カーテンとはこの実存を覆い隠す膜である、といえば、記事の冒頭の文章とあわせ、みなさんすぐに納得されるだろう。
それでは、小説の登場人物を(例えばドン・キホーテを)「発明」する小説家とはどういう存在だろうか。四部は小説家に根本的な経験である叙情的なものからの回心(106)を論じた前半と、小説家の存在について語られる後半に分かれている。ここでクンデラは、芸術作品の本質に「ある美的な計画に基づく長い仕事の成果」を据え、そして文学の無分別な増殖(これは出来事の歴史にも似ている)に対抗して「本質的なもののモラル」を考えている。四章の最後で、この観念はセルバンテスドン・キホーテの著者は私である、と宣言したところに始まることが明らかになる。ここで私たちにわかるのは、小説とは何か、という問いと関わらずに小説家とは何か、と考えることができない、ということだ。引用しよう。

ドン・キホーテの贋作の続編が出版された事件をうけて、セルバンテスは)激しく剽窃者を攻撃し、誇らしげにこう公言した、「私一人のためにドン・キホーテが、そしてドン・キホーテのために私が生まれたのだ。彼は行動することができ、私は書くことができた。彼と私は同じものなのだ……」。
セルバンテス以来、それが小説の第一の、根本的な目印なのである。小説はただひとりの著者の想像力と不可分の、唯一の模倣できない想像なのだ。(…)小説芸術の誕生は著者の権利の自覚とその仮借ない擁護に結びついていた。小説家は自らの作品の唯一の主人であり、彼はその作品であるのだ。

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芸術の歴史はそれぞれの作品を相互作用する意味の場におき、そのことによって作品に意味を与える。「小説の歴史という文脈の外においてみれば、『ユリシーズ』はただの気まぐれ、狂った人間のわけのわからない奇矯にすぎないことになるだろう」。
だから芸術の歴史は重要である。芸術の歴史性こそがわれわれに価値の感覚を与える歴史性であり、われわれはそれを個人的なものとして把持している。
なんにせよ、我々にはふたつが必要だろう。芸術と、芸術の歴史。反復を許さないというその本質からして、芸術とその歴史は滅びやすい。本書の最後の表題である「永遠」とは、出来事の歴史のような、無価値の反復の永遠、非芸術の永遠である。