シンボル形式の哲学:エルンスト・カッシーラー

シンボル形式とは何か

精神の主要な働きはそれに与えられる入力の客観化である。客観化作用の結果、シンボルが創造される。この概念はハインリヒ・ヘルツが用いたもので、シンボルは認識が創りだした自由な「虚像」であり、この直接の対応物が感性的所与にあるわけではなく、対応関係が無いがゆえにこの概念の集合は自己完結的なものである。
また、精神によってシンボルを用いて客観化されるものははじめは精神に即自的であるから、客観化は精神そのものの自己開示である。シンボルの形式には多様なものがある。芸術、言語、神話、科学、数学など。これらは存在の反映、写像なのではない。「むしろ独自の光源なのであり、見ることを条件付けるとともに、あらゆる形態化作用の根源をなしているのである」。(Ⅰ、56)カッシーラーは文化批判を通じて、カント的な理性批判を引き継ぐ。この批判が理解、立証しようとするのは、「文化の内容というものはすべて、それが単なる個別的内容以上のものであり、ある普遍的な形式原理に基礎を置いている限り、精神のある根源的な活動を前提にしている、ということである」(Ⅰ、31)。また、この批判において対象概念は次のような規定を受ける。「(意識は)固有な仕方で対象に関係することによっておのれの対象を「もつ」」。(Ⅰ、32)感覚的諸印象はまずカオスとして与えられる。精神はおのれの自由な活動によって、この流動的印象に「形成をくわえつつ対峙」する。これが記号付与であり、それを遂行することで精神はその印象に「形式と持続性」を与える。(Ⅰ、82)そのため、記号は現実の模写ではなく、おのれが精神の能動的な活動によって構成されたその時点ですでに事物そのものからは離れている。記号の発達は直接的な内容規定の後退に従って普遍的な形式契機と関係契機が前景化してくることによってなされる。記号は素材からその精神的形式に移行するための媒介を果たす。この媒介作用こそが記号の意味であり、そのため記号論とシンボル論が足場となって、厳密で精密な思考が実現される。(Ⅰ、42)

批判的分析は何を目指すか

哲学は形式相互間の純粋に内在的な関係(Ⅰ、36)を見通すことのできる立場を見出さんとする。デカルトヘーゲルにおいては、精神的存在と精神的出来事を、ある特権的な次元に関連付けることで還元することが目指されている。この体系学的方法と、デカルトが批判したような経験的な方法(「事物の総体を通覧し、そこから自然の究極の秘密に分け入ろうとした」(Ⅰ、37))の双方をカッシーラーは退けている。体系学的方法においては特殊性が失われるし、経験的方法においては普遍性への道を見つけられないだろうからである。そこで、次のようにいわれることになる。

(こうしたジレンマを抜けだしうるとすれば、)精神のそれぞれの基本形式のうちに認められるものであっても、そのいずれにおいても全く同じ形で再現してくることのないようなある契機を明示し、把捉することに成功することであろう。

(Ⅰ、40)
この考察においては単一性は断念される。つまり原初としての一も綜合としての一も要求されない。「これが提示しているのは、はじめから単一性を断念しているような統一の問題である」(Ⅰ、60)ではこの継起には具体的にどんなものがあるのだろうか。

継起

カッシーラーはまず、形式における質と様相の区別という契機を考えている。質というのは、ある関係はその部分を特殊な方法で関係付ける(系列化する)のであるが、その「結合の仕方」である。この質はコンテクストに依存していて、別の文脈に置かれることで意味を変ずる場合がある。例えば「継起」的に結合された諸要素、という関係のもつ意味(質)は、それが音楽という文脈に置かれるか、科学的世界観のもとに置かれるかによっては、全く異なる。しかしこの文脈の差異によっても変ぜられずに残る「一般的・抽象的な質」が存在する。この差異をもたらす文脈が特定の「様相」(自然科学的様相・芸術的様相・論理幾何学的様相・・・)である(Ⅰ、61参照)。そして、ある特定の質が認識されるためには、すでになんらかの様相が機能していなければならない。「意識においてはいかなる内容の定立も、まさに定立するというこの単純な働きによって他の内容の複合体全体をも共に定立することにならざるを得ないということが、意識の本質に属しているのである」。(Ⅰ、63)
この意識の根本傾向は、もちろん他の意識作用にも当てはまる。Representationにおいてのみ、Presentも可能になる。(Ⅰ、66)また空間形象の直感は、直接的な感性的知覚を一つの表象にまとめこむことと、この統一を個々の構成要素に分解する動きによってのみ可能である。これらにおいて基盤となる契機とは、「全体をすでに要素のうちに捉え、要素を全体のうちに捉えるという一般的な可能性」である。個別的なものはそれぞれがすでにはじめから、ある特定の複合体に属している。個別的なものは各々がそれが属する複合体の規則を表現し、この規則の全体が時間、空間、対象的結合、といった意識の統一を構成する。同時に、個別的なものが複合体に属することが可能なのは、「意識の綜合においては、(・・・)全体こそが部分を構成し、各部分にその本質的な意味を与える」からでもある。この相互制約によって、意識はおのれの統一を構成する。部分と全体におけるこの関係をカッシーラー微分積分の関係に類比している。
この立場から見られた場合、哲学的問題に新たな照明を当てることが可能である、とカッシーラーは語っている。つまり、生の真理はどのように捉えられるか、という問いである。生Lebenの問題は存在概念への問いに代わって登場してきた。それは独断論存在論における主観性と客観性の対立を緩和させたかにみえたのだが、かえってもうひとつの問題を提示した。生の直接性はその記述に逆らい、概念的分割を許さないようなのである。これは哲学的思惟に二つの立場での選択を要求する。ひとつは精神の実質を形態化に先行する純粋な根源性にもとめるものであり、もうひとつはその多様性に要求するものである。(Ⅰ、92)明らかにこの両者ともに利点と欠点がある。この生への問いを変換することを、カッシーラーは提案する。それは、精神の創造物を「その根本的な形成原理から理解し意識化する」ことであり、この意識によってはじめて生が所与という存在領域を超えいでて、「「精神」の形式へと転化し完成される」(Ⅰ、95)。われわれは精神によって算出されたものをその個別性によって認識することによって、その統一性を確証するのである。

固有の尺度

ある精神的形式の独自性を確実に規定するためには、何よりもその形式をそれに固有の尺度で図ることが必要である。(・・・)その形式を形成する働きそのものの独自の基本的法則性から引き出されなければならない。(・・・)すべての新たな形式はそれぞれ新たな世界「構築」を示している。そしてこの世界「構築」は、特殊な、ただそれだけに妥当する基準によっておこなわれる。

(Ⅰ、209)
すぐ後で説明されるように、この立場においては、基本的前提をなすと考えられている諸区別を絶対的なものとして考えてはならないということが導かれる。つまり「主観」と「客観」、「自我」と「世界」といった対立は認識によって媒介されたものとして理解されるべきものである。このため、客観性とは、個々の感覚印象がある検証を受けることで対象に帰属されるものだといえるが、「この検証、この確認は、経験的思考及び経験知のどの段階でもけっして終わることはなく、いつもあらためて再開されるし、再開されねばならない」。(Ⅱ、79)また、表象の対象に対する指示作用は、その表象を「一つの包括的な体系的全体の連関に組み込み、それに一義的に明確な位置を割り当てるということ」しか意味しない。

言語

カッシーラーは言語において内的存在と外的存在がはっきりと区別されていないこと、心的な内容とその感覚的表現が相互浸透的で相互規定的であることを指摘し、特に後者の感覚的表現が内面的出来事を構成する、と強調している。つまり「まさしくその出来事の外への現れと一見思われるものが、その出来事そのものの形成ないし形態化の本質的な要素を為していることを示している」。「心理的な物の「現実性」はすべて過程と変化にあるのであって、状態へと固定されることは後から行われる抽象と分析の仕事なのだということ(…)」。(Ⅰ、212)
われわれはこの過程をどのように評価するべきか。「実際には、それぞれ形式の持つ意味は、それがなにを表現しているかにではなく、表現の仕方、その様相と内的法則性とにのみられうるのである」。形式とはそれ自体精神の自発的な客観化であり、法則化によって直接的な所与から離れてゆく。この「隔たりの増大のうちにこそ」形成作用の価値と独自性が現れてくる。この関係は逆説的であり、直接的な所与を離れることによって精神は己自身に還帰する。一巻ではそれが言語に即して理解される。つまり、言語という形式が「内的な自己解放を遂行してゆく過程」の三段階、模倣的表現、類比的表現、真のシンボル的表現。この移行の終点において、言語は自らの多義性を利用し、その機能を「表示する」から「意味する」にまで達する。また直感的表現においては、身体に結びついた表象から発生する空間概念から、時間概念、数概念、自我概念、人称概念が形成される。かくして形成された言語はついに概念的思考を、そして論理的思考を可能にする。カッシーラーはこの長い分析で見られたそれぞれの契機がその時間的な前後にかかわらず含み合っていること、「単純な感覚や知覚の機能が、概念的把握とか判断とか推論といった知的な基本的諸機能(・・・)を、それは潜在的に含んでいるのである」(Ⅰ、445)と結論する。
言語発達にあってこのように筋が通った、見通しのきく理論を組み立ててしまったことに僕はまず驚いたのだけど、本書はそういった範囲を超え神話、数学、科学的思考にそれぞれの契機を描き出していく。そしてそれらに通底しているのは、精神の自己開示がこういった諸々の象徴形式を作り上げることだろうと思われる。

神話

シェリングは、神話解釈において「寓意的」解釈をしりぞけて、神話の諸形象を「精神の自律的な形成体」とみなし、これらをそれ自体の、独特の意味付与、形態付与の原理から理解するという「自意的」解釈をかえた。(Ⅱ、26)この立場において、神話はまったく事実的な物となる。神話には独自な様式の実在性がそなわっており、それが哲学の問いになるのである。神話は生活の形式から生まれてくる。多神教は、「人間の意識が次々にその多神教のすべての契機のもとに実際に立ち止まってきたと考えることによってしか、説明されえないのである」。(Ⅱ、31)生活形式とは、主観的なものと客観的なものの境界にあるものであり、その無差別としての地点、と説明される。シェリングに従えば、相対的一神教から多神教を経て絶対的一神教に至る過程は、神の自己産出の、それ自体が真理であるところの過程である。神話の普遍的客観的な真理としてのこの過程にまでシェリングは到達するが、彼の自然哲学に関する叙述において、カッシーラーはこの絶対的単一性の概念そに潜む個別的差異の消失を見る。

神話が第二の「自然」ともいうべきものになりうるのは、あらかじめ自然そのものが一種の神話に変えられてしまっていたからなのであるが、これは、自然の純粋に経験的な意味と真理性とがその精神的な意味に、つまり絶対者の自己開示であるというその機能に止揚されるということによって果たされたのである。

(Ⅱ、37)
そこで、カッシーラーシェリングの問題を絶対者の哲学から批判哲学の地盤へと移し替える。批判哲学の方法とは所与から出発してその所与が可能になる条件を分析することだが、そうしてみられた神話的意識の形式が、いまや問われることになるのである。そしてそれは神話を、シンボル形式の全体系のうちに位置づけることでもある。他のシンボル体系と同じく神話もまた、所与からの精神の解放であり、象徴であるがゆえに自己完結した総体へと形成される。(Ⅱ、64)
二巻「神話的思考」の一〜三部では、それぞれ神話の思考形式、直感形式、生活形式が分析される。神話がそこから生まれてきた生活形式を解明するのが、この巻の目的である。この叙述は(前巻とは反対に)さかのぼってゆく叙述になる。(Ⅱ、150)それによって例えば、人間は自己意識を神話的思考のうちにおいて規定しうるようになること、人間は対象を扱う仕方(行為の構造)を対象自身から発見すること、それらの自覚化や発達に神話的思考が大きく関わっていること、などが明らかになる。こういった分析を経た第四章「神話的意識の弁証法」でまず確認されるのは、神話が精神の形成作用から生じる客観的な表象の「自己完結的な把握形式」(Ⅱ、437)であるということである。そして、宗教が歴史に即してみられるのだが、言語においてその発達が感性的なものから出発して徐々に抽象的なものに、所与を離れたものへと向かっていったように、宗教の歴史的展開(神話的意識の弁証法的進行?)は寓意における宗教特有の意味付与の度合いの変化として考えられるのである。(Ⅱ、474)

認識の現象学

「認識の現象学」では、「理論的世界像」の構成が分析される。分析の対象は極めて多岐にわたっており、この記事で全体を概観するのは不可能だろう。ただ大ざっぱには、本巻でもその膨大な分析は生は自己を把握可能なものにするために、自己を形式化する=他性を与えるのであり、われわれはこの形式化作用の構築過程を踏破することによってのみ、この形式化に働いている諸契機を生む根本法則を示すことができる、という考えに基づき、その解明に捧げられている、と言えると思う。カッシーラーは四巻で、そうした精神の成果である科学的思考と、数学的思考の形成を分析しているけれど、この記事ではそこには立ち入らない。われわれが理解しようとうするのは、カッシーラーは精神の客観化を一体何だと考えていたか、である。

主観性と客観性

三巻第一部第一章では、意識の解明の手段はいかなるものであるのか、が考えられる。意識の問題において、カントは主観的なる統覚の超越論的統一によって普遍的で必然的な諸法則の総体である自然の統一性を説明し、この両者の協力関係によって経験の対象の構築と構成をおこなう事を示した。しかしこの意識の問いの範囲が拡張され「世界了解」の諸形式に向けられるとき、この構成物は科学的世界観と同じような妥当性を主張できるわけではなくなる。フンボルトはその言語の分析において、言語の客観的な契機だけではなく、その主観的な、それを「捉える気分」の契機を強調し、「言語は単に相互理解のための交換手段であるだけではなく、精神がその能力の内的活動によって自己と諸対象の間に構築しなければならない一つの真正な世界なのだ」(Ⅲ、109)という構造をみとめた。この主観性は「まぎれもなく」それまでの主観性概念とは別種だという。どのように別種なのかといえば、それが言語の中に具体化される「具体的な」主観性だということだと思われる。この分析は、どのようになされるべきかを、カッシーラーはナトルプの心理学に依拠して説明する。その方法は、つまり今まで本書が行って来た方法、諸々の客観化をもたらす精神の批判的分析である。

表情現象

カッシーラーはあらゆる世界像の基礎として、それに形態化が加えられるものとして、「表情現象」の世界を考えている。(Ⅳ、318)この現象とは、例えば乳幼児が顔を認識するときの<好意的である>とか<好意的でない>といった現象のことであり、この世界を原初に据えることは、単純な感覚印象がたがいに結びつくことを原初におく考えとは全く対照的である。(Ⅲ、135)
この表情現象の基層から、カッシーラーは主観性の領域への通路を再構成しようとする。ここで導きの糸とされるのは言語的な動きでも概念的な認識でもなく、むしろ神話における、現象からの世界の形態化の様式である。(Ⅲ、140)この神話的形態化から徐々に、別の形態化が自己を分化していく。そうした流れをたどっていくことで、カッシーラーはわれわれのあらゆる認識や、あらゆる概念的思考の原初として表情現象があることを証明していく。ここで示唆しておいたほうがいいと思われるのが、理論的な世界像においては「表情のうちにひそんでいる諸契機の違いが起源の違いにまで高められる」(Ⅲ、192)である。結果的にアプリオリとなるアプリオリ、というのがあらゆる理論的思考の根底にあるのだが、その批判的分析は、理論相互間のパラドックスを脱パラドックス化するのである。

諸力

精神の形式化はどのような過程をたどるか、が邦訳第三巻の残りを占めている。以前にも言われていたとおり、われわれの認識はすでに特定の観点を前提としているが、この働きがより詳細に解説されることで、いわばシンボル形式の哲学における認識論が展開されている。
カントがいう「産出的構想力」に相当する根源的形成作用、「シンボル的理念化」は、感覚に追加されて感覚を判断や解釈に供するのではなく、むしろ直感を「全体としてはじめて「成り立たせる」」ものなのである。所与とは、すでにある特定の観点で受け取られており、こういった受け取られ方こそが「根源的な直感そのものの端的な意味」であり、つまり産出的構想力と関係しないような直感など存在しない。(Ⅲ、260)意識の与件は形態化された全体である。(Ⅲ、272)だからあらゆる現前はつねに表出=再現前化であり、その発展的な自己分節化が感覚的表象から表示機能を担うまでに至ることができるのである。(Ⅲ、269)

空間と時間

この観点から、空間と時間という形式の産出が説明される。これは言語における概念の形成としてすでに一度扱われたテーマが、再び検討される。まず空間についていえば、空間とは記号を通じて知られるような固有の対象でなく、「表示作用そのもののある固有の様式、表示作用そのもののある特殊な図式的要約」である。「経験的直感及び経験的な対象世界の「形式」」として考えられたこの空間の漸進的分節化が、われわれがもつ「物の永続性」を、ひいては概念的思考を可能にする。
時間概念の端緒においては、われわれが過去、記憶によって規定された現在を直感するというだけでは充分ではない。それはすでに時間概念を前提としているからだ。この立場からは、<想起>は過去の知覚の単なる再現ではなく、ある瞬間において新たな現象と新たな与件とを構成する行為であり、また予期は産出的構想力と歴史的意欲との相互促進によって、またこの意欲に対象を与えることで意欲を支える、シンボル的<表出>の様式の作用によって、構成される。(Ⅲ、346-352)

結語

科学において、経験は形式によってあらかじめ先取りされていたものを限定し、科学的思考を妥当なものにする。思考は図式を形成することで世界の総体を定位すると同時に方向づけることで先取りし、経験は実行可能性を与える、といってもいいかもしれない。邦訳最終巻でなされるのは、われわれの精神がいかにして概念的思考、つまり数学的、科学的思考にいたるかを示すことである。ともあれ、僕はカッシーラーが至った類例を見ない射程にとても感動したのだけども、その一端については、お読みになってくれたみなさんにも伝わったものと信じたい。(僕の力不足はさておいて)
「「個体発生的」発達の順序は「系統発生的」発達の所得室を忠実に守る」(Ⅲ、223)という本書のアプローチにおいて現れてきた法則は、どこかピアジェを思わせるところもあるし、本書がカントの批判的分析を引き継ぎながら、直感の形式の条件にまでたどり着き、神話から科学にまで至る思考の旅途を精神のそれぞれ異なる諸契機のうちにそれぞれ異なった仕方で表現される根本法則、という極めて困難な旅程を踏破したことは、それ自体大きな達成として評価されるだろう。本書が刊行されたのは、1923年から29年にかけてである。(Ⅳ、384)不完全性定理の発表を目前に控え、量子力学のめざましい進展や言語学の新潮流が台頭しはじめ、社会的には両世界大戦の間に、本書は書かれた。本書は、もちろん歴史的に制限されてはいるが、それを超えて未だ、われわれに教えるものが多いだろう。とても長い記事になったが、読んでくれたみなさんに感謝します。