シンボルの修辞学:エドガー・ヴィント

シンボルの修辞学 (晶文社・図像と思考の森)
エトガー ヴィント
晶文社
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本記事では主に二つの章を読んでいく。それによって、本書における芸術の社会的側面と、現代の芸術を簡単に把握することを目的とする。これは極めて不完全なものにとどまる。また事実誤認があれば、それはすべて私の責任である。

一章

プラトンは、人間の精神が本来的に対立する諸力によって緊張状態におかれていると考えていた。ここで芸術は一種の魔術であり、精神の統一を促進する場合もあれば、危険にさらす場合にある。そのため、それは精神の統一を促進するために利用されなければならない、とプラトンは考え、芸術は国家の監視下におかれ、各々の芸術分野はおのれの秩序がもつ権利を切り詰め、互いに調和し統合しあわなければならない、とする。これをプラトンは「幸福」と呼ぶのである。
プラトンにおいては、恐怖や苦痛と同じように、快楽や娯楽についても、それらに対して武装する、「無制限の享楽の落とし穴をよく知る、つまり「神的な恐怖」を身につける」ことが必要であり、その恐怖による警戒態勢のうちでこそ魂は自らの限界を知るのであり、国家が芸術を自らの監視下におくのは、芸術が快楽と苦痛を成型し、また、芸術は秩序を与える知性とはかけ離れた要素に訴えかけ、人間を堕落させるからである。
以後一章で見られるのは、レッシング、カント、シラーにみられるような、プラトン的幸福がもはや目指されていなかったり各々の秩序の対立関係に独自の価値が見出されるような信念の変化が、このプラトンの芸術観にいかなる変容を加えたかと、ゲーテ以降のロマン派が、芸術の仕事を象徴的転移とみなしたことで、しだいに芸術と現実とが、相互に無関係なものになっていった過程と、またワイルドがプラトンと同じく「芸術によって人間が変えられる」という事実を認識していて、それでいて神的な恐怖を招くことなく、向こう見ずな横暴さを招いたこと、などなどである。ヴィントは最後に、芸術と社会の進化において、近年(1932初出)それらの活動が再び近付いている、と指摘している。彼の結論は、プラトンの教育の意図であった「人間の本性に対するわれわれの洞察によって定められた限界」を見つけ「人間性の概念に到達する」ためにはどうすればいいのか、という問題提起である。

十一章

本章では、近代の宗教美術が研究され、その形式がみられている。ヘーゲルの告発、「宗教はもはや生活の核心を締めはしない、科学と国家が」その機能を引き継いだため、それ以後の宗教画は「何の役にも立たない。われわれがその前で跪くことはもはやない」という批判から逃れたように見える二人の画家、マティスとルオーが本章の主題になる。その他にももちろん、多様な宗教画の形態が考察されている。例えばゴーギャンは《黄色いキリスト》でゴーギャンの神ではなく農民の神を書いており、ゴーギャンは自らを観察者という役割にしていて、それは感情が表立って現れない、宗教衰退の兆候の一つであることや、サザランド、ピカソ、ホセ・オロスコ、カール・シュミット=ロットルフの作品については「祈りのためには明らかに力不足なことが、あからさまで執拗な罵りに身を任せることで」ごまかす傾向として例示されたりしている。
そういった状況にあってともに信心のための芸術を生み出したのがルオーとマティスであるといわれる。マティスは「信心の情感を表現できる、雄弁で一貫性のある抽象」を頼みにし、ルオーは聖顔の具体性を際立たせ、「絶対的な物」を特殊なものの中に映し出し、しかもそれを超えていく(279)ということを確信を持って象徴した、といわれる。
本章はルオーが地上的なキリストを称えたことへの言及で閉じられる。

終わりに

ヴィントは美術史家という枠に収まらない、広範な思想を展開した。私がこの記事で読もうとしたのはそのうちほんのわずかにとどまっている。ヴィントの方法の詳細な解説は、冒頭の伝記と「解説にかえて」にある。伝記の記述には、1960年に行われた講演(「芸術とアナーキー」)の要約も含まれている。その講演では、われわれが観てきたことを含む芸術の現代の状況の分析がなされていて、ヒュー・ロイド=ジョーンズはその要約を書いてくれている。その部分を引用することにする。

いわゆる芸術と機械化の間に親近性が育ってきたのも、「純粋芸術」が提供するものが、大量に複製されるのにおあつらえ向きの単なるパターンでしかないからである。(・・・)ヴィントは明言している。自分は大衆教育の結果を嘆いているのではない。芸術が大量に配布されることに伴う問題は、それがあまりにも多くの人に提供されることではなく、それが間違って提供されることなのだ。

(62)
美的形式主義に抗して「芸術作品をその社会的、文化的、知的コンテクストに置くことにより、ヴィントは、われわれが、数世紀を越え、(・・・)馴染みのない言葉で語りかけてくる偉大な芸術家達の声を聴くことを、可能にしたのだ」。(67)われわれの美的見方に、ヴィントの著作は貢献し続けるだろう。そして、それはわれわれが芸術の力を何らかの形で認識することにも、役立ってくれると思われる。