技術と時間1 エピメテウスの過失:ベルナール・スティグレール


初めに

本書はこみいった叙述ではないものの密度が高く、その各論に深入りしてゆくと、全体的な把握を失いかねない。この記事ではとりあえず大要の把握を目指す。スティグレールの思考はハイデガーデリダを引き継ぎつつ、第一章で見られるような技術進化の理論を取り入れて技術を思考しようとしている。スティグレールにとって現代はプログラム産業の時代だといえるだろう。「外部環境に徐々に侵襲してゆく内部環境における運動」(79)である技術傾向は遺伝的に書きこまれたプログラムを外在化し、既存のプログラムを中断し、新たなプログラムを生み出すことで完成する。これが「時代-画定」とよばれる。(二巻,9)このプロセスが産業化されるのが現代である。その詳しい分析は次巻で行われる。本巻で行われるのは、それ以前の分析であり、現代技術を鮮やかに語るというものではないが、それでも重要だろう。

第Ⅰ部

ハイデガーは近代技術に集立という面を見て取った。現代において技術は機械によって担われている。「システム」とは、である。

技術を手段として捉えてはならない、とハイデガーは教える。現代技術は「集立」ととして特徴づけられ、また「器官や、その類の要素の統合によって形成される」集立をわれわれはシステムと呼ぶ。このシステム性によって特徴付けられる現代の技術は、(それまでとは反対に)みずからを自然の主人となす。われわれ人間が自然の一部である以上、技術が自然に命令するということは、技術が人間を統制governするということである。そのため、技術は手段としては捉えられない。(35)
技術がシステムとして理解される以上、技術は手段として理解されることはできない。「技術進化の諸理論」として、スティグレールはベルトラン・ジル、ルロワ=グーラン、シモンドンを参照する。ジルは「技術システムは時間的な統一体を構制する。均衡点を中心に技術進化が安定し、特定のテクノロジーとして具体化する」(44)ため、「技術システムが技術発明を条件付けており、技術進化がまずシステムから」考えられねばならないことを示す。
また、ルロワ=グーランはシステムの進化を「技術傾向」によって統御された準有機体として考える。ルロワ=グーランにおいて、「傾向」という用語は「外部環境(人間を物質的に取り巻くあらゆるもの)に徐々に侵襲して行く内部環境(社会的記憶、いわゆる「文化」)における運動」を意味する。(79)
そしてシモンドンは、「有機構成された無機の物質」である技術対象がその固有の力動によって起動する産業段階を分析する。シモンドンにおいて「技術進化は、技術対象そのものに完全に属し」ており、人間はこの力動の「志向的主体ではなく、その操作者に過ぎない」。(88)技術存在は「みずからへの収斂と適応によって進化する。それは、内的共鳴の原理に従って内的に統一されている。」このプロセスが具体化と呼ばれる。(95)具体化において、発明力は人間ではなく技術対象の潜勢力である。人間は発明家ではなく操作者という役割を持つ。また技術対象は具体化することで、固有の環境を作り出す。そして「環境を作り出す技術対象は自然を集立=臨検する。」(106)
技術対象の具体化へと向かう力動は「人間という操作者、動因、作用因の側に先取りの可能性を前提する」。「対象は、人間によって生み出されはしないが、先取りするかぎりでの人間を必要とする」。(118)この先取りには、本書の冒頭でハイデガーを参照して触れられていた。すなわち現存在は「いまだないものの様態で常に既にみずからを先取り」している。(8)つまりハイデガーが言う現存在の時間性の根本を先取りはなす。(「配慮」も先取りの一形態である。それは予見として「非規定なものを規定することを目指した先取り」であり、実存の頽落である。)ハイデガーに反して、スティグレールはこの先取りの能力そのものが「技術対象を前提」することを示す。(107)「先取りはその起源から対象の技術性そのものの内で構制されていないだろうか」。この結びつきを分析するために、スティグレールは続いて人間論理と技術論理を比較検討する。

人間論理は、人間の本性、そして起源を問う。ここにアポリアが存在するのは、まず問いのかたちそのものが問われなければならないからであり、つまり人間の本性があると定式化することができないからである。(131)起源について問う時、単なる事実を「本質的な統一体に権利上取り集めるような真理の言説」はいかにして可能なのか。この問いはすなわち、近代哲学でいう超越論的問いである。(139)それを示すためにスティグレールは『メノン』『パイドロス』を参照し、プラトンがその解決として「それなしにはいかなる知もありえなくなる起源的な知の存在」(想起説)をいい、その形式がカントにおいて経験を可能にする超越論的なものの要請として再び現れることを指摘する。(140)続いてルソーの検討にうつる。まずルソーは「超越論的な問いの次元にまで高められた人間とは何かという問いの父」だと言われる。(148)ルソーの読解を通じて、起源の問題がさらに深く考えられる。ルソーは「人間不平等起源論」で、プラトンに比肩する歩みを歩む。ルソーは虚構(「存在したことがない」ひとつの状態)を語るという技巧によって、超越論的な想起をおこない、起源の直接性に接近する。(154)
こうして想定された起源の人間が転落するのは、偶発事が、「第二の起源」が生じるからだ。この(起源からの)移行が偶然的であることは、「起源の不在としての起源」、始原を概念化することの不可能性を意味する。(188)この困難は、技術論理と人間論理を一つの運動で考える場合、観点の根本的な変更を前提する、ことを意味する。(190)

続く第三章では、人間が生命一般の歴史においてどのように考えられるかが問われる。デリダ差延の概念をめぐって、「動物と人間を隔てる境界を、根源的に動揺させる」。差延は「生命一般の歴史」である。(202)この歴史において断絶が生じるのは、「遺伝的差延から非遺伝的差延」への移行においてである。これは既現的なものを継承する構造の出現だと言えるだろう。つまり本書7ページで言われていたような、現存在が自分のものではない過去を継承するという歴史性に関わる。この過去の継承を、スティグレールは人間の後生系統発生と呼ぶ。(206)続いて、ルロワ=グーランの「非人間中心主義的概念から」考えられた人類学が検討される。この分析を通じて、人間論理の観点が捨てられ、技術論理の観点から、技術が時間を構制するという仮説を検討することが可能になる。(39)

第Ⅱ部

ハイデガーの批判的読解がなされる。ハイデガーは「既現的なものの問いを曖昧なままにしておく」という。ハイデガーにおける伝統の概念が検討され、伝統は不可欠だった「過失の歴史」として捉えられる。続く長い読解を通じて、現存在は差延する存在者であることが明らかにされる。(338)差延する存在者であるというのは、現存在が先取りする構造が差延的である、ということだろう。
「<何>の脱離」でハイデガーフッサール読解が読まれる。フッサールはブレンターノを批判して、時間的現象を現在の瞬間、「根源的=起源的印象」に、現在を構制する過去把持と未来予持が結びついた変容のプロセスと考えねばならないとする。(364)今を構成する過去把持は「第一次想起」と呼ばれ、また「追想」が「第二次想起」と呼ばれる。
ハイデガーは現存在を構制する時間性を(フッサールとは異なり)歴史的なものとして概念化した。その結果、「生きられたのではない既現的なものが、それでもなお、あらゆる現前を構制すると考えねばならなくなる」。(368)しかしハイデガーはここでフッサールに従ったままで、既現的なものの力動を逃してしまっている、とする。
更にハイデガーの「骨董品」の分析が検討され、そこで既往的なものへの接近という問題がしめされたものの、この問題を「第二犠牲の範疇に押しやって」しまったといわれる。スティグレールはこの第三次想起の力動、後生的系統発生の地平が、ハイデガーにおける「覚悟性」、つまり「過去の実存の可能性を本来的に反復すること」に意味を与える地平であることを指摘する。(401)更に、ハイデガーは「現有の歴史性」が歴史学の前提であるというが、スティグレールは歴史家による「歴史性の歴史的特徴付けは」既往的なものの実定性によって本来的に構制されていると指摘する。(405)つまり、時間の計測のために何らかの用具=技術が必要である、ということだろう。
スティグレールはこの困難を、ハイデガーにおいてもなお<誰>(現存在)が(決して本来的に構制的とならなかった)<何>(手許存在)に対して優位を保っているためと考える。そして、こうして問題化された<何>と<誰>、あえていえば技術と現存在=時間(197ページ)の捉え直しが、次巻以降の課題になることを示唆して、第一巻は終わる。