技術と時間2 方向喪失:ベルナール・スティグレール

このエントリーは技術と時間1の続きです。


はじめに

一巻の冒頭で技術は非思考である、と言われていた。なぜ技術の思考が必要なのかを示しつつ、同時に、本書は技術の思考を行う。本巻の「序」では前巻の思考が簡潔に捉え直されている。スティグレールは繰り返し、技術が起源的であることを示す。例えば、後生系統発生と呼ばれる「第三の記憶」は生物の経験が道具装置に書き込まれることで継承が可能になったものだが、これはプログラムの外在化として捉えられる。
「プログラム」は、動物においては遺伝的に決定されたものであるが、人間では、後生系統発生と呼ばれる(5)技術的な記憶において、このプログラムを外在化する。記憶は、遺伝的書き込みからの解放のプロセスを実行する。(Ⅰ、第Ⅰ部、第三章)この解放のプロセスにおいて、技術発展は現行のプログラムから「引き剥がし」、新たなプログラム的なものを生み出す。(10)このため、記憶は起源的に技術に代補されているといえる。(107)
この「継承」とは、現存在が自らが生きなかった過去を継承することであり、「存在と時間」の実存分析に繋がる。
スティグレールは本巻の前三章をつうじ、「第三次想起の歴史」を素描する。第三次想起とは、ハイデガーのいう世界歴史性、フッサールの「像意識」、または人間が生きなかった過去の痕跡という、後生系統発生の媒体である。また最終章ではフッサールが読解され、フッサールがいう「意識の流れ」にかえてスティグレールは過去把持と現在の過ぎ去りとが相互作用する意識を語るだろう。

正書法の時代

スティグレールはまず、アルファベットの音声的な理解ではなく、その「正書法的性格」に特権を与えることが必要であるとする。(18)正書法エクリチュールにおいては、その「正確さ」が本質的である。こういった「正確さ」を本質とする記録は、エクリチュールだけに限らない。その総体を、スティグレールは「記憶の正定立的媒体」と呼ぶ。正定立的媒体を論じた一例としてバルトの写真論を参照し、スティグレールはその「本質的確実さ」(「かつて-それは-あった」)という正定立的契機と同時に、その確実さそのものが、即座に転回、迂回することで「揺れ動く確実さ」を不可避的に生み出すことを指摘する。(31)
つづいて、スティグレール鏡像段階を解釈する。鏡像段階で、不十分な主体は自己の全形を外在性において先取りする。この外在性は内在性を構制するものであり、特に「一次的外在性」と呼ばれる。またこの力動は生命においては「前定立性」とよばれ、ネオテニーの生物学的分析と結び付けられる。鏡像は本質的に歪曲であるが、この歪曲は矯正され正定立的になる。(43)こうして、スティグレールは<何>(手許存在)の歴史を鏡の歴史として捉え直す。それは<誰>は<何>、技術とその矯正によって構制されているということである。

続いてエクリチュールの分析がはじめられ、フッサールの「幾何学の起源」が参照される。フッサールの読解で読まれるのは、「道具的過去把持性、つまり構制的第三次想起」、記録としてのエクリチュールが共同体化のプロセスを可能にするのはいかにしてか、ということである。

まず「差延的同一化」という概念が導入される。これはあるテクストがそれを既現的なものとして引き継いだ共同体において常に新たに解釈されることで、最終的な読解が無限に遅延されるというような意味である。(60)続いてボテロの『記憶補助からエクリチュールへ』とデリダの読解をつうじ、スティグレールエクリチュールの(「記憶補助」と区別される)「正書法的なものへ向かう」、文脈から引き剥がされる性質を提起する。つまり、テクストの「差延的同一性」である。テクストのこの性質によって、<誰>(現存在、人間)は既現的なものをひきつぐことができ、歴史性(市民であること)に開かれる。(90)<誰>がこの差延的同一性を経験する(テクストを読む)ことによって、<誰>は自らの「テクスト性」を発見する。テクスト性とは、読み手である自分が「過去の既現的な言表の織物であり、自分自身のもの、みずからが生きたものが」いま、ここから常に絶えず解釈すべきものであるという性質である。

同様に、このエクリチュールの正定立的性格は、その過去(それを読む<誰>にとっては既現的なもの)を「規定」するのではなく、むしろその脱文脈化という様態において「非規定」にすることが明らかになる。(92)この非規定性によって、その読み取りが累積的に反復されることが可能になる。

こうした思考が(一巻第一章で辿られた)技術進化の理論と接合されることで、技術と「文化」の歴史(<何>の歴史)の問いが開かれる。技術とは、外在化であり、それは脱時間化と脱領土化を常に伴っていた。したがって技術進化は社会の伝統(整合性の構造)を攪乱し、また「文化」はその力動を統合しようとする。「技術化とは、起源的に、引き剥がしであり、社会発生は、この技術発生を再固有化する」(2)。この再固有化、差延においてのみ歴史性が展開する。(95)「技術性はつねに既に脱文脈化し、既に構制されたプログラム的なものを中断し、知識の基層と沃土を構制する」。しかし今日における技術は、この差延を省略し、そのことによって「リアルタイム」という脱時間性が生じている、とスティグレールはいう。(98)では、この現代の時間性はどのような<誰>を生じさせるのだろうか。この問いが本書の三章までの問いだといえる。

記憶の産業化

「記憶が「過去把持の有限性」、起源的に補助されたものであるかぎり、技術は記憶なのである」。(107)既現的なものを引き継いだ<誰>は捉え返しの働き(先取り)により技術進化を遂行する。(154)この可能性は過去把持の有限性に由来しているが、スティグレールは現代において記憶への産業的投資、すなわち「過去把持のメカニズムに対する統御」が行われている、と考える。(162)記憶は、記憶可能なものにおける選択であり、その選択に接近できるのは過去把持が有限だからである。記憶可能な事実が記憶になることによって、それはイベント(出来事)化される。この選択の基準が可能になるのは、「接近と方向付けの前定立的可能性を規定する技術傾向と同時に、これらの可能性から平均的なものとして生まれる、「現存在がみずからの存在に関して有する了解」」(163)によって、つまり自らのものではない既現的なものを自らの可能性とすることによるが、この記憶の産業が発展したのが現代である、と言える。(167)続いて、情報工学、通信工学、リアルタイム・ネットワークの登場の帰結が素描され、知が「情報化」されることで、(「正書法の時代」にみたような政治的な空間を開くのではなく)経済的要請に資することになる、と語られる。(178)これは例えばアーカイブにおいて現れる。アーカイブは「有望な投資先として、収益化可能でなければならない」ため、アーカイブの記憶(=忘却するものの選択)は経済的収益性に資することになる。(204)更に、近代と伝統的システムとの比較が続けられる。マスメディアの登場とともに実現する現代のテクノロジーはどのような時間を生み出すのだろうか。伝統的なシステムで、出来事を生み出すのは歴史家だった。歴史家は出来事に対してつねに遅れた、「出来事の物語」の構成によって出来事を遡及的に把捉し、それによって出来事は初めて出来事になるのだった。つまり出来事が出来事になるには遅れがある。(192)反対に現代のシステムにおいては、この時間性が省略される。この省略によって「リアルタイム性」が生ずる。リアルタイムにおいて、出来事はその遡及的な把捉抜きに出来事であると言える。「われわれの時代の現在は[・・・]既に「生み出され=提出され」、創作、構築、操作され、書かれたものとしてわれわれに生起する」。この「リアルタイム」による差延の抹消は、他にも民主主義、知の伝達などに影響を与える。
ついで「ネットワーク」の意味が分析される。ネットワーク一般は「距離のなかで結び合わせ、共時化し、遠くに開くと同時に近づけるものである。[・・・]ネットワークなしに領土は存在せず、つねに、ネットワークあるいは網状組織しかない」。(228)ネットワークは脱領土化することにおいて領土化する。「既存の領土の限界を乗り越え」、変容させ、違ったかたちで再構築するのがネットワークの発達である。「記憶化の文字的ネットワークの拡張が、ポリスを誕生させた」。政治的共同体も、ネットワークの所産だった。現代のネットワークはいかなる政治、<誰>を生むのだろうか、という問いが第三章で続けられる問いだろう。

時間対象と過去把持の有限性

本章でスティグレールフッサールにおける志向性の問いを辿る。(310〜)それを大まかにみていくと、
どんな意識も何者かについての意識であり、その対象を構制する。対象はこの構制以前に与えられてはおらず、前もって志向されているのは「形相」である。形相は理念的対象であり、世界のうちにも意識のうちにもない。この志向性を思考するために、フッサールは「対象/主体関係」に「現象と、それがその内で構制される意識の流れ」を取って代え、後者を問う。(314)流れは、みずからに閉じた統一であるが、その統一を自らの外に投射することで、「形相的地平」を見出す。(317)形相が存在する場所は「来るべき統一として二重化=捉え返され、投射される、流れのうちの渦の目あるいは欠失」、「流れそのもののうちでの非合致」である。流れはつねに自己と非合致であり、常に未完了の充実のプロセスである。この志向性が共同に志向されるのはいかにしてか、という問いとともに、時間性が問われることになる。(319)時間と体験の関係がみられたあと、時間意識の問いが検討される。フッサールのメロディーの分析(内的時間意識の現象学)において、過去把持は起源的印象としての「今」に反作用して、今を変様するのだが、それをフッサールは見逃してしまう、といわれる。この困難は「現象学の原理である志向性に厳格に忠実であることによって、時間対象の超越は還元不可能になってしまう」ために生ずる。(335)
スティグレールにおいて、過去把持は有限であり、そのため記憶は起源的に技術に補助(代補)されている。(107)フッサールは記憶の喪失、過去把持の有限性を抹消するため、第三次想起が代補として生じてくることも同様に抹消する。(360)しかし「幾何学の起源」において、フッサールは起源の「技術論理的な解明」、すなわち「幾何学の理念的可能性の始点を正定立化に」見て取る。(385)これは「現前性は、既現的なもの」に由来することを示している。フッサールは、ここで根本的な反転を行ったのである。
そうした読解を経て、本書で示されるのは、「現在の過ぎ去りが過去を触発し、その非規定性を明らかにするかぎり、今度は、その過去が現在の過ぎ去りを触発するようになる」という、ループとしての意識である。(404、訳者解説)