免疫学の巨人イェルネ

免疫学の巨人イエルネ

医学書
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イェルネの業績についてはwikipediaを貼っておく。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%8D
本書は物語を提示している。それを僕は小説のように、「意識」についてかかれた物としてしか読むことができない。しかし本書は初めから深く移入、おそらく感情移入をせずに読むことはできないだろう。本書は二つの語りが交錯している。いわゆる神話の語りと、歴史の語りだろう。神話の語りは現在要請される発生論的説明であり、歴史とは保存された膨大な資料である。交じり合った二つの語りにおいて優越しているのは、歴史資料に標示される語りのほうだ。そこに複数の神話的物語が侵入してくる。(うわさ、インタビュー)そのことを著者は何度も断っていて、できる限り排除しようとしている。そうでなければ伝記に値しないからだ。その排除はすんなりと進む訳は無い。相当な労力がかけられたことだろう。
本書ではイェルネの学術上の業績を、彼の独自なパースペクティブにおいて説明している。そのため彼の業績より彼の実際的な人生に殆どが割かれている。哲学や文学を好む科学者は、じつに物の見方にとらわれない人間であった。結果は実験の方法に独立ではなく、新たな方法が生む結果が、新たな理論を可能にする。僕が休み時間の免疫学でもっとも驚いたクローン選択説の原型は、彼の鋳型説に対する深い反発から生まれた。僕は本書を通じてイェルネに接近したかったわけだから、こういった把握が正しいのかどうかは分からない。しかしそれよりも本書には悲しみが書かれている。免疫学や哲学よりも普遍的な部分。本書ではイェルネを一貫した人物として書いている。何か不変のものが、幼少期から晩年まで保存されているような感じがする。それはこういってよければ、優越感の裏返しとしての、もしくは優越感を求める劣等感だろう。そのエネルギーが常にどこかへ向けられている。哲学や文学、学問、サディズム、大学内に自分を見出すこと・・・。それが本書を文学のように見せる。神話と歴史の混合としての物語、文学。いや、


これ以上書き続けても本書に対して無作法な文章を続けるだけだろう。少なくとも僕には、人間の人生について判断を下すことはできない。本書は優れた伝記であり、文章も読みやすい。本当のところ、それだけで充分なのだ。これ以上無作法を続けるわけにはいかない。