中身のない人間:ジョルジョ・アガンベン

各章の要約については、岡田氏による解説(191-202)でなされているので、立ち入らないことにする。本書でアガンベンは、近代の芸術論を参照しながら、それが古代の受容とことなるのはなぜか、という問いをたてる。ヴィントがいうように、プラトンにおいて芸術の力は精神に大きな作用を及ぼすものだった。(シンボルの修辞学:エドガー・ヴィント - ノートから(読書ブログ))また、ヘーゲルは芸術作品はもはや先行する時代と異なり、「精神的要求の満足」を魂にもたらさない(59)とした。アガンベンヘーゲルをよみつつ、教養が自己否定によって自己を再発見するという倒錯であること(40)と、芸術家の主観性とその芸術の素材との一致が分離されたという指摘を参照する。(51)
まず後者からはじめると、芸術家がその素材と統一されて生きる限り、鑑賞者は芸術作品の中に「必然的な方法で意識にもたらされた固有の存在の最上の真理」、固有の本質の表現を見ることができた。しかし芸術家の意識が素材から分離され、芸術家がその主観性に基づき自由に素材と形態を選び取れるようになる。すると、「芸術作品のこの共通の具体的空間は解体され」、鑑賞者は芸術作品の中に美的な表象を見るようになる。アガンベンはこれが「趣味」の誕生、すなわち趣味人と芸術家の分裂であるとする。趣味によって自己を確信する趣味人(37)は、自己を芸術作品のうちに「他者」として、異化された状態で発見することになる。(56)その自己確信がヘーゲルによって「内容は同一の自己でありながら、形式的には、両者が絶対の対立関係にあり、たがいにそれぞれまったく無関心な存在」といわれたものである。(39)

続いて、アガンベンの芸術観が展開される。ヘーゲルを再び読解し、先に読まれたように芸術家は芸術的主観性(先の芸術家の自己意識)という創造-形式原理が、あらゆる内容と無関係になることによって自らの本質を失うが、むしろその分裂を根本的な経験となす主体であること(80)が知られる。アガンベンによれば、この芸術的主観性は「あらゆる内容を無化し解体することで自己を超越し実現しようとたえずつとめている抽象的な絶対的非本質性」である。この「否定の純粋な力」は芸術家自身にも向けられ、芸術家は「否定の作品を完成する」。(83)ここで、「自己を無にする無」となった芸術はニヒリズムと繋がる。本書では以降、ギリシャからのポイエーシスとプラクシスの概念を追うなどして、この理論を精緻なものにしてゆく。