レトリック入門

第一部第1章、「レトリックの「発見」」で著者の野内氏は古代から現代に至るレトリックの歴史を簡潔に纏めている。現在のところ、レトリックとは「弁論術」(雄弁術)と「修辞学」という二つの異なった意味を表す。これは古代、キケロの時代の弁論術の五部門、つまり発想、配置、修辞、記憶、発表(10)のうち、中世と近世を経て「修辞」、文体と文彩の技法が分化したためらしい。古代では政治の場で行う弁論の技法として用いられたレトリックが、中世においては神学における論証、解釈の道具(17)として用いられるようになったためである。近代に至ると、レトリックは科学主義、合理主義やロマン主義の趨勢に押され衰退するのだが、二十世紀の後半にいたりロマン・ヤコブソン失語症研究に端を発する形でレトリックの復権が始まることになる。(22)
ここで復権されるレトリックには、二つの異なった傾向がある。すなわち、見直されるのが「修辞学」(狭義のレトリック)か「弁論術」(広義のレトリック)かという点である。ヤコブソンやグループ・ミューが前者を、ペレルマンが後者の「レトリック」を再生している。(24)ペレルマンが揚言するには、レトリックは「価値判断の論理学」として位置づけられる。著者もペレルマンと同様に、この点にレトリックの現代的意義をみていると思われる。それに加えて、著者は狭義のレトリックと広義のレトリックにはある関係が通底しており、双方の架橋が必要ではないか、と語る。(27)続いて、提喩、隠喩、換喩がそれぞれいかなる認識論的役割を果たしているかが説明される。(36-41)本書(二部)ではこの認識論的原理に従って諸文彩が分類されている。(42)
本書の二、三部では、レトリックがいかにして用いられるか、それは何故説得的なのかといったことが細かに説明され、本書の中心といって良いと思う。「はじめに」では本書は「レトリックへの認識論的問い直し」を目指すとされている。じつに、こうした観点から見られたレトリックには、確かに本書で例示された「レトリック批判」(21)の範囲を超え出ているものがある。