楽園への道:バルガス=リョサ

双方とも実在の人物であるフローラ・トリスタンとその孫で画家のゴーギャンの、それぞれの楽園の探究を描く。本作品においてもっとも求められているのは、抑圧からの解放だといえるかもしれない。メッセージ性が強い作品で、それが独特の強度を与えている。
フローラをその目的へと突き動かしているのは、彼女の来歴だ。解説から。

(父親の死によってブルジョワ的生活を喪失し貧困の中生きてきたフローラは)若くして石版工房で彩色工として働きはじめ、一八二一年、その工房の所有者アンドレ・シャザルと結婚する。この結婚生活の中で、セックスや結婚に対する憎しみが芽生え、結婚というものは女を男に売り、男の奴隷とする制度であると考えるようになる。

この後も人生の不幸を乗り越え、彼女は女性解放運動家となる。女性や労働者など被抑圧者解放の運動を行い、一八四四年に没した。
彼女の目的は、彼女の短い寿命により果たされなかった。彼女を動かしたのと同じ社会の矛盾はまたマルクスを生み、それは二十世紀のイデオロギーの一つとなる。
彼女は女性として押し付けられるイメージに断固として反対する人間として描かれる。例えば夫婦のセックスに動物性を見て嫌悪するし、娼婦と思われると我慢がならない。幸せな結婚、とわれわれが思うような恋人も、そのような生活に堕落することを自らに許さない、といったふうに。男装をし、売春地区やフィニッシュと呼ばれる「酒場兼女郎屋」もしくは「居酒屋兼売春宿」へ行きその性的放埓や貧困を目の当たりにしたことや(19章「怪物都市」)、また彼女のピューリタン的道徳もあり、彼女は決して「女性としての幸せ」には自己を同一化することはない。端的には使命感の強さが、彼女を理想へと、突き進ませる。

対してゴーギャンは、自らの芸術への没頭から、社会的使命などを感じることなく、ハイチでの生活を送る。本作品においてゴーギャンの頭を占める観念は、両性具有としてのタアタ・ヴァヒネだとされる。それはマオリのエデンである「われわれは何者か」の中心の人物に描かれたものであるといわれる。
ファイル:Woher kommen wir Wer sind wir Wohin gehen wir.jpg - Wikipedia

キャンヴァスを二つに分けている中央の大きな人物はだれなのか。明らかにイヴではない。おれどころか女かどうかもわからない。皮膚や腰、腕などはどこかした女性的だが、腰布をふくらませている膨らみは女性のものではない。それは立派な睾丸と固くなったペニスのようだ。もしかしたら頭をもたげているところなのかもしれない。
突然、彼は笑い出した。タアタ・ヴァヒネか!マフーだ!

(244ページ)
男性でも女性でもない性が、彼らのなかでは場所をもっていた。しかしそれは植民政府の教会の道徳などによって、男/女という判明な対が浸透するにつれ、失われてゆくものだった。
思えば、本小説の人物はみな性に関連させられている。フローラはいうまでもなく、ゴーギャンもハイチに着く頃にタアタ・ヴァヒネと呼ばれ、彼もそれを終わりのほうでは受け入れていた。またフローラの嘘を知りつつ愛を寄せ続ける『聖なる去勢男』は、フローラの意に反しつつ彼女に終油の秘跡を与え(458ページ)、彼女の反抗を終結させるし、フローラのレズビアンの恋人や「女将校」などの人物も性に関して個体化されている。性の二項対立は、特に彼らの時代においては深刻なものだった。


ともあれ、これらのことは皆本筋を離れるといわなければならない。本当は、そうではなく楽園への弛まぬ前進、努力が描かれているのだった。身体の中からの障碍(銃弾、性病)と外側からの圧力、それらが楽園を常に存在しないものとしてのユートピアにするにもかかわらず、彼女らは、楽園を求めていた。その描写の迫力が、われわれに本作品を素晴らしいと感じせしめるものとなっている。