フライデーあるいは太平洋の冥界:ミシェル・トゥルニエ

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フライデーあるいは太平洋の冥界/黄金探索者 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 2-9)
ミシェル・トゥルニエ J・M・G・ル・クレジオ
河出書房新社
売り上げランキング: 55904
おすすめ度の平均: 5.0
5 読み応え満点以上120点
5 ル・クレジオがいい
5 真の「黄金」とは何か?

この小説は面白く、一気に読んでしまえるけれども、間に哲学的な思索がはさまり、ドゥルーズの「無人島」なども記憶を刺激して、何かを書こうとすると難しい。ロビンソン・クルーソーの物語を元にしていて、トゥルニエ自身の思索も大きく付け加わっている。そういうわけで、書いてみると長文になった。閑があるときにでも読んでもらえるとうれしいです。また、同書におさめられたル・クレジオの「黄金探索者」については、こちらが長くなりすぎたので日を改めて書くことにする。


真っ先にロビンソンが失うのはカレンダーだ。無人島の外で今はいつなのか?という問いは答える人が居ないため答えのない問いとなる。自然の時間的尺度として、太陽の周期だけが残される。原初的な時間。少し後のことだが、ロビンソンはその時間を水時計で細密化する。また日記をつけ、島をスペランザと名づけ、島の地図を製作する。失われてしまった習慣、仲間を失った孤独から、彼はこう書く。(p.43-45)

わたしはおそるべき幻惑に襲われつつ非人間化の道を辿り、わたしはこの非人間化の冷酷な仕業が自分の内心で働いているのを感じている。

そして私の孤独は単に事物の明白性を攻撃するだけではない。事物の存在の土台そのものまで侵食するのだ。そこで徐々に、私は自分の感覚の証言の確実性に対する疑惑に苦しめられるようになった。(…)(幻覚)などを防ぐのに一番堅固な砦は、われわれの兄弟であり、隣人であり、友人もしくは敵である(…)

ロビンソンは島に穀物を栽培し、その収穫を貯蓄と投資にまわす。家畜を養い、島の資源を開発する。島全体が「徐々に生成して行く」のを感じる。そして島が「徹底的に抽象的で、透明で、理解できる建造物に変貌するまで」機械的客観的にしたいと感じつつ、自らをスペランザ(島)の一つの観点であり、スペランザ全体と一致することに、魂の充実をみとめるようになる。ために、法律が組織される。
ロビンソンと島との合一間が進み、島の生み出す自由な生成が自らであると感じるようになる。スペランザがみずからを「作る」とロビンソンは感じる。(p.72)
ただしこの心像(イマージュ)の原因をロビンソンはよくわかっている。それは自己嫌悪であり、自らが醜くなったと感じたからだ。自らの不能感の両面として、彼は島の支配と島=母胎的な想像と行為を同時に行う。ロビンソンは島の洞窟の中、「垂直で極端に狭い通風孔の入り口」に「規則正しく滑り込んで行」く。(p.85-)そしてその先の母胎的イメージとロビンソンの赤子的体勢は説明を要しないほどだと思う。

こうして彼は永遠の幸せの中に宙ぶらりんになっていた。

ロビンソンは島について間もない頃泥に浸かり自らはこれを危険と戒めていた。それは刑法第二条によって禁じられるほどのものだった。(p.60)

(スペランザ島刑法)第二条 泥沼に浸かることは一切禁ず。違反者は罰として所定の二倍の期間、土牢に監禁される
〔注記〕こうして土牢は泥沼の反命題のように――それゆえある意味では解毒剤のように――思われる。刑法のこの条項はそれに基づいて幇助者が罪を犯した場所で罰せられるべき原則を直ちに明示する。

ロビンソンが泥沼に浸かっていた描写は31ページから。「脱出号」船を作る試みが挫折して、ロビンソンは泥沼に沈む。その描写もやはり母胎的で、回想を伴う点でも類似する。これにきっぱりと背を向けるのは41ページに書かれる「航海日誌」だが、そのシーンは脱出を志向していたロビンソンが、上にあげたような思考へと転換する場所、島を征服しようとする転機でもある。

<スペランザ>はわたしをこの泥たまりへ追放する。泥溜りは私の敗北であり、わたしの悪徳である。わたしの勝利は、絶対的な無秩序の別名に過ぎないその自然の秩序に抗して、わたしが<スペランザ>に課すところの精神的な秩序である。ここでは生き残るということも問題にさえなりえないということを、今では私は知っている。生き残るということは死ぬことなのだ。忍耐強く、休むことなく、組み立て、組織し、秩序立てなければならぬ。立ち止まるたびに、それは一歩後退することになり、その後退の一歩は泥溜りへの一歩である。

この二度の回帰の違いを精神分析的に解明したいという欲求は強い。しかしそれはどこか小説をゆがめるようであり、避けたい物でもある。もう少し留まってみよう。ロビンソンはこの類似を理解していないわけではない。(p.90)

ああいうことをしたのは果たして善だったのか悪だったのか?

確かに泥たまりの思い出が私に不安を与えている。つまり洞窟は確実に泥溜りに類似しているという不安である。しかし悪は常に善の猿ではなかったろうか?悪魔サタンは顔をしかめるという彼一流のやり方で神を模倣する。

そしてロビンソンその回帰的回想の危険に気付いてもいる。

洞窟がその中に私を沈める回顧的な夢想は、スペランザにできるだけ高い程度の文明を持たせようとするわたしの日々の戦いとほとんど両立できない。

結局この二つに納得できる区別を与えることを、ロビンソンはしない。その逆にこの二つが同一であることを、ついに認める。埃の風により、泥溜りは消えてしまい、問題はなくなったように見えるけれども、その後、ロビンソンは不意の漏出により、そのインセスト禁忌的な正確をはっきりと自覚する。洞窟の窪みは死の場所であり、墓所として生命の円環を閉じる場所としてとっておかれる。(93p)

たぶん、後になって、老衰のためわたしの体が涸れ、わたしの男らしさが干からびてしまったときに、わたしはもう一度窪みに降りてゆくだろう。しかし、そうするのは、二度と再びそこからあがってこないためなのだ。こうすれば、わたしは自分の亡骸に、墓所のうちでも最も優しいもの、もっとも母なるものを与えることになるだろう。

恐らくロビンソンは、窪みを受け入れたように、いまや消えてしまった泥溜りも受け入れたのではないだろうか?

ロビンソンを覆う島への分裂的態度は更に極端なかたちを見せ始める。つまり、島の開発と、島への適応。(p.94)

管理されて文明化された島が完全にわたしの興味を引かなくなる瞬間が遣ってくるに違いない。そうなったら、島は唯一の住人を失ってしまうだろう。

「非人間化されたロビンソン」と「人間化された都市」という二つの作業を同時に行うただ一人の住人=ロビンソンの、危機は深刻である。これを救うのはおそらくフライデーだろう。そしてその時島は水時計という外在的な時間の支配から、一瞬解放された瞬間(p.75)のような装いを見せることだろう。それはもう少し先のことである。窪みにいくことをやめてから、ロビンソンにとって島は一人の女、一人の妻のような存在となった。<植物の道>の先で自らと花を重ね合わせ、島とロビンソンは家族的三角形を形成する。ロビンソンは島のユング的な母型の変容の、終わりの方の段階にいる。


ある日、ロビンソンはフライデーの命を救い、フライデーはロビンソンに従う。彼はようするに、ロビンソンの知らない人間であり、他者である。従順に従い、主人と召使の関係だが、フライデーはロビンソンの製作した秩序を破壊する。それは徐々に、ロビンソンの目の届かないところを進むが、ついにロビンソンはフライデーと島との不貞を見定める。それは島とロビンソンとの関係の終わりでもある。ロビンソンに声がつぶやく。(p.146)

「おまえは今おまえの歴史の曲がり角にいる、妻である島の時代――これは母である島の後にやってきて、母である島は管理された島の後に位置する――が終わる番だ。絶対的に新しく、前代未聞で、予見しがたい事物の到来のときが近づいている」

そこに住む人間の変化が、島を変化させる。それは無人島に人が住み始めるとき、つまりロビンソンの漂流以前は無人島であったその島がスペランザ島になるときに顕著であり、また、その後の島の変容はわれわれが見てきたものでもある。フライデーとロビンソンのいる島は、それまでの島とは当然異なる。しかしロビンソンはまだ迷っている。それは彼の中の、西洋の名残でもある。フライデーが島に残っていた黒色火薬を爆発させるのはその時である。



爆発は島に大きな破壊をもたらし、ロビンソンが島に刻んできた秩序は完全に失われる。ロビンソンはフライデーを兄弟のように思うようになり、父と子の家父長的な厳格な関係はもう島には存在しない。ロビンソンがもつ時間は、ここで決定的に我々のものから離れる。126ページの航海日誌。

わたしの生活の中で最も変わったのは、時間の流れと、その速さであり、その方向でもある。

暦の時間にロビンソンは別れを告げ、続いて

これから、わたしにとっては、時間の輪は縮まり、瞬間と混同されるほどである。循環運動はもはや不動と区別がつかないくらい速くなってきている。(…)それぞれの毎日は互いに似ており、わたしの記憶の中で正確に重なり合わず、わたしには絶えず同じ一日をやり直しているように思われるくらいである。(…)以来、フライデーとわたしが身を置いているのは永遠の中ではなかろうか?

この時間は、われわれに「フィネガンズ・ウェイク」として知られるあのジョイスの小説の巨大な円環の一日を思わせるものでもある。ダブリンと孤島の違いはあれど。無数の出来事が縮約された一日だけが存在するのであり、それは彼が以前にも一度見ていた時間<無垢の瞬間>である。爆発以来、水時計は吹き飛んでしまっている。75ページのことをまだかいてていなかった。ロビンソンは水時計を偶然に停止させる。そして島全体に時間の一時停止が起こったことに気付く。水時計の停止、ぽたぽた落ちる水滴の停止は、フライデーによる火薬の爆発と同じく、無意識的に起こっている。

昨夜、水を入れ忘れたので、水時計が停止してしまっていたのだ。

意識的に再現しようとしても上手くいかない。時間の感覚はわれわれにとって、無意識に属しているからだ。時間の変容とともに島も物語の中では最後の変容をこうむる。それは今や何によっても概念化されない島そのものといったようなものであるように思われる。島は母でもなく、女性でもなく、管理されるべき未開でもない。



ロビンソンの漂流を知ることになる船がやってくる。イギリス船で、ウィリアム・ハンターが乗っている。しかしロビンソンは彼らの中に野蛮さや暴力や強欲を見てしまう。そのためロビンソンは島に残り、結果的にフライデーと別れる。船が行った後でロビンソンは島にフライデーがいないことに気付き、絶望する。なぜならもはや遭難から二十八年の時が流れ、もうやりなおしようがないほどに老いているからだ。開始しようとしている新しい時間への恐怖である。時間を終わらせようとして、彼は再び窪みに向かう。そこに一人の少年がいる。船から逃げてきたのだった。色の描写が注目される。彼は白子であり、ホワイトバード号が海の向こうの白い点となり消えてゆこうとする。カモメ、光、ダイヤモンドの目。救済のような光が小説の描写に力を与え、物語は一挙に終結する。新しい始まりの時間。永遠の一日=日曜日。