見えない都市:イタロ・カルヴィーノ

見えない都市

カルヴィーノのこの小説は決して一本のもしくは少数の線形の説明に収束することはないように見える。それは都市そのものの性質に似ている。フビライ汗がドゥルーズがいう超コード化を遂行しており、マルコ・ポーロが都市をコードに従って次々と産出していると見なすことも可能だろうけれども、それも一つの読みに過ぎない。二人の語りによって進む線形部と都市の断片=星座部とが別々にあるのだ、と考えることも、そうでないと考えることもできる。
マルコ・ポーロが語る都市の諸断片は大江健三郎同時代ゲーム」の最終章に登場する森の中のイメージに重ね合わせることもできるし、あるいは彼が(P:202)いうように「あり得べき彼自身の未来であったもの」、いわゆるゲーム的リアリズム的想像なのかもしれない。またすべての都市は似通っていることから、ニーチェかもしくは主題と変奏なのだろうか。またはマルコは結局本当の都市について何も語っておらず、ただ現在過去未来の可能なパターンにすぎないのかもしれない。いや、こんな話はやめよう。あまりに抽象的で、何も語っていない。語りなおそう。





最終第九章で描かれる、フビライ汗のもつ地図帖(アトラス)は、無限の都市を持っており、同時に無限もしくは予測不能な道とひとつの終末を指し示す。それは「輪を狭めてゆく渦巻」のように絶望的にみえる。しかし、都市は常に共時的であるから、それは時間的線形的ではない、最後に最悪の都市に至るのではなく、時間的に並存する都市間の間での選択、良い悪いの決断が必要なのである、とマルコはいう。都市の諸々の変容を思考することが欠かせないのであり、その思考の概念として、これまで多くの都市がマルコ・ポーロから語られていたのだ、とわれわれは気付く。この小説が都市についてのただのお喋りではなく、極めて真面目な物語であったことに気付かされる。

文庫版もあるが、上の全集版のほうをすすめておく。庭、灰がすばらしい小説なので、ぜひ読んでみてほしい。図書館でもいい。