庭、灰:ダニロ・キシュ

庭・灰

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プルーストを思い出させるような家庭の描写から始まる。この小説は回想というかたちをとっているため、視点は当時の限定された閉域に厳密に即している。死の恐怖と母親への依存、両親という大きな存在、初恋、宗教に結びついた罪の感覚などが語られるが、その背景を為す時代性はなかなか前景に出てこない。ただ事件として前景化される断片から、ある種の逃走(観念的なものではない現実的な)を彼らが行っており、彼らにとって家族性が特に重要であるということが次第にわかってくる。訳者解説は優れており、象徴や構成についてはこれを一読すればすっきりとわかるけれどもかえって判明すぎるので、訳者解説を先に読むと、この徐々に開けてくる視界が味わえないかもしれない。

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伯爵の森で、本小説内で最も美しいイメージが描かれると共に、ある困難が、そして小説の明示的な主題が登場してくる。97ページ。父の「新聞で洟をかむ癖」とそれに伴う「森の中、日暮れ前に、一キロメートル四方にわたって響くその音」について語られた後に、明示的な時の断絶「父がいなくなってから、たっぷり二年も経って」そして

僕は、伯爵の森の奥深く、空き地で、草と夜車草の花の間に、色あせた新聞紙を見つけ、アンナ姉さんに言った。「見てよ、父さんたら、これだけを僕たちに残していったよ」

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続いて、話者はいう。

こうして、まったく予期も予想もできなかったが、この歴史は、このお話は、いよいよ僕の父の歴史、天才エドワルド・サムの物語となってゆく。

そして父の「漠とした過去」が「僕たちを苦しめ、楽しい事実の記録に専念することを許さない」といい「仮面を剥がし、正体を暴こう」と続ける。訳者解説にここからの要約がある。それによると、ラインヴァイン家という三人称的な語りが導入され、「時間に関する表現がさらに不正確にな」る。続いて「九章で時間は逆流」し、話者の生前の事象が描かれ、十章では家族の愛犬が新たに前景化され、再び父との別れのシーンにまで至る。
しかしこれらの試みにもかかわらず、話者は「今日のこの話が(…)何もかも、一度にごちゃごちゃになり混乱してしまった。あの父の天才的な姿がこの話から、この小説から消えてしまってから何もかも散り散りになり、歯止めがきかなくなってしまった」(p:150)と語る。父の書いていた作品の名を作中で何度も変えたようでもあり(37p参照)、また、子供のころの寝る前の死への想いが屈折して原因となったかのようでもあり、その一段落は読者に深い感銘を与えるだろう。


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そして最後に、小説で語られてきた多くのことについて一応の結末が断片形式で語られる。それは話者の持っていた、そして物語の素材たらんとした諸々の概念のように思われる。家族や幸福、夜と死の象徴的混合、罪、ミシンなどの失われた対象、失われてしまった人たち、そして森。小説を終わりまで読むとき、われわれは言いようの無い感動を覚えるだろう。それを説明するようなことはしないでおく。