名誉の戦場:ジャン・ルオー

アデン、アラビア/名誉の戦場 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-10)
ジャン ルオー ポール ニザン
河出書房新社
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続けて同じ本で申し訳ない。

小説は僕の一人称で語られはじめる。徐々に描写の範囲は広がっていくのだけど、描き出される空間は地続きであるように見える。(私が)第一章の描写を読みながら書いていたメモ。
おじいさん→地域の気候→おばあさん→おじいさんの車→門番修道士→南仏への列車→ビュルゴー夫妻
小説の中で区切られるひとつの小さなまとまりが、次の描写に鎖のように繋がれている。それで流れるように人物と風景が描写されて、小説の世界への移入がスムーズに行われる。
切れ目の無いような語りのなかに、切断線が各章(四章構成になっている)といくらかの節の間に描かれる。たとえば237ページ。「僕」からみて完結した世界のなかに、もう一つの開け、広がりが入ってくる。つまり、電界と磁界のように相生起する列車のような語りの流れが生み出す閉域を広げる役目を、切断線は担っているといえる。それは話者が意図的に語らなかったことのときもあるし、偶然にわかるようなことでもある。



ただ話者、僕の視点から書かれる人物間の関係は、ある程度複雑で、しかもこれを忘れると全体が意味を成さなくなる、そういう繊細さがある。かといってこれ以外の方法でこの小説が書けたとも思えないのだけれど、つまり主観性の中でのみ意味のある全体性を小説内で構築する、客観的な価値では到達できない全体性を描くためには、こういった方法以外はとれなかったのではないかと思うのだけども、そうはいってもはじめは僕自身混乱していたので、整理するための人物紹介を書いておく。参考にしていただければ幸いに思う。即席で作ったものなので、充分に整理されていないけれども。それと、小説の内容の重要な部分に触れることは書いていない。

  • ビュルゴー夫妻。小説内では「おじいさん(アルフォンス)」と「おばあさん」。「僕」の母方の祖父母。娘が三人おり、マルト、「母」、リュシー。おじいさんの友人に、ウスタージュ修道士がいる。
  • マリー(おばちゃん)。兄のエミール、弟のピエール、それともう一人の弟がいる。ピエールは「僕」のパパである、ジョゼフの父親。女教師で、信仰があつく、生涯未婚だった。エミールとマティルドの間にはレミという息子がいる。
  • ニーヌとジズーは「僕」の兄弟。ニーヌが姉で、ジズーが弟。


そしてその徐々に広げられた世界を、第三章が綜合する。これは訳者の解説が詳しい。

語句ありふれた日常の一こまから始まる物語は、遠くから寄せては返す海の波のように一定のリズムを刻みながら、気付かぬうちに少しずつ高く盛り上がり、最後には大きなうねりとなって全てを包み込む。そして大波が去った後にはまた、いつもの日常が、だがその奥深くに悲劇の傷跡を残したまま再開される。『名誉の戦場』においては、螺旋は第三章の迫力に満ちた毒ガス攻撃の場面で一つに収束し、戦場に降る雨は冒頭のロワールの町に降る雨と一つに溶け合う。墓掘り人イヴォンのエピソードに至るまで、全てが伏線として意味をとりもどし、無駄にされるものは何も無い。

(311ページ)
まさしくその通りで、諸々のエピソードが比喩や家族的結合を通じて、全体を構成している。それは客観的な意味や価値をもたない、極めて個人的な全体である。


(5/28)ポール・ニザン「アデン、アラビア」については以下。
http://d.hatena.ne.jp/musashino10/20100521