アフリカの日々:イサク・ディネセン

アフリカの日々/やし酒飲み (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-8)
イサク・ディネセン エイモス・チュツオーラ
河出書房新社
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イサク・ディネセンが1937年に発表した本作品は、著者自身のアフリカでの体験を回想したもの。著者のアフリカ人への態度はある種の距離をとることといえ、それは例えばキリスト教の教会のような、いわゆる西洋中心主義的態度とも、また植民者の圧制とも異なって、彼女の文体に現れるのは一般的に言えば差異を差異としてそのままにすること、とでもいえそうなもの。もちろん、当時のアフリカの政治的地図は相当複雑である。私はまったく無知なので本書の記述を引用すると、

この高地にいたのは象だけではない。森林をわずかばかり切りひらき、焼け畑をつくって芋やトウモロコシを植えている、争いごとを好まない温和な人々が住んでいた。

土地に、「大小さまざまの猛禽類」が襲来する、それは

冷酷で好色なアラブ人たちがやってきた。彼らは死をさげすみ、……アラブ人とともにやってきたのが、その庶出の弟分のソマリ族である。……このソマリ族と行動を共にしたのがスワヒリ族である。……高地への侵入者たちは、そこで土着のべつの猛禽類に出あった。マサイ族である。

(156-158ページ、……は原文を省略した部分)
これらは彼女がアフリカに来るよりも相当前のことだけれども、人種やその習慣の差異が消えてなくなるわけではない。また彼女の時代には 植民地はカトリックプロテスタントの教会がそれぞれ布教をめぐって対立し、また世界情勢自体も安定しない。
彼女はその対立の中で、決断する立場におかれる。彼女はあくまで白人であって、アフリカの人々との差異は常に感じているけれども、彼らに同一化するでもなくただ彼らを民族として尊重している。このような態度において、少なくとも彼女の記述したところでは、彼女とアフリカの彼らとの間には信頼関係があるように思える。そのような人生には、大いに人を感動させるものがある。

もちろん、そこには彼女自身の強さがある。のみならず、彼女の聡明さもある。例えば、キトシというアフリカ人少年が植民者の(私的)刑罰により死亡した事件の記録から、アフリカ人の植民地においてさえ失われない生殺与奪に対する自由を読み取り、そして「アフリカにおいては、ヨーロッパ人はアフリカ人を死に至らしめる力をもたない」と結論する(296-301ページ)部分や、彼女が土地に現在する様々な宗教にうまく対処する部分など。(ただし、このうち後者の力、そしてそれを支えていた強さは、第五章のキナンジュイの死を目前としたくだりにおいては、減退している。宣教団に対抗して、キナンジュイを彼女の家に保護するという気力は失われる。

ここのこわれかけた椅子に座り、いろいろ思いめぐらすと、私にはとてもこの主には背負いきれないきがした。この世の権威に対抗して立つ力を私はもはや自分のなかに見出すことはできなかった。

(363ページ)
そしてかえって私たちは、彼女の努力がただならぬものだったことを知る)



内容の細かな点についてはあまり書くことがない。解説にもあるとおり、彼女は、何を書くべきか、はっきりと自覚しているように思えるからだ。彼女の記憶のうちのアフリカは、彼女が18年間を過ごした場所として、はっきりとした像を彼女のうちでむすんでいた。それは細かく区切ることでよりよくなる、というようなものでもなく、むしろ全体論的に像を描いているようである。

関連:
やし酒のみ:エイモス・チュツオーラ - ノートから(読書ブログ)
同じく本書に収録された小説です。