第七官界彷徨:尾崎翠

尾崎翠集成〈上〉 (ちくま文庫)
尾崎 翠
筑摩書房
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まず著者の解説(「第七官界彷徨」の構図その他)を読むと、本小説が情景の鉄道的な接続と、ものに持続的な場を持たせること、登場人物を「一脈相通じた」性格で統一すること、また結局実現はされなかったが、小説全体に円環的な構成をもたせること、という意図の下に書かれたことがわかる。
話は少し脱線するけれど、この登場人物のあいまいさ、というのが一見した時に感じたよくわからなさの原因だった。一人称の主人公はともあれとして、三人の兄・従兄弟がくっついてあいまいなイメージを形作っていた。再び読んだときにはそのようなイメージも消えたけれども・・・。

小説に入ろう。一人称の小野町子は、「人間の第七官にひびくような」詩をかこう、そのための勉強をしよう、と決意し、それぞれが勉強家であるという家庭に呼ばれることにする。家庭には町子の二人の兄、小野一郎小野二郎のほかに、従兄弟の佐田三五郎が住む。一郎は精神医学の、二郎は農学の研究をし、三五郎だけは音楽学校の受験勉強をしている。

ともあれ、人物の紹介には立ち入らない。それは必要になれば加えることにしよう。第七官は、町子自身にもつかまれていない。第七官自体の定義は与えられないが、彼女のめざす詩に与えられる定義はあり、それが「第七官にひびくような」ものであるということ、つまり第七官の動きを観察するのではなく、反対に第七官をうごかすようなものであるということがいわれる。

町子は兄たちとの生活で、第七官の事例というようなものをいくつか、発見してゆく。一郎がもつ分裂心理について書かれた書籍から、

「互いに抗争する二つの心理が、同時に同一人の意識内に存在する状態を分裂心理といい、この二心理は常に抗争し、相敵視するものなり」

という文章をみつけ、これに男が同時に異なる二人の女性に恋慕する、といった例を当てはめて、

こんな広々とした霧のかかった心理界が第七官の世界というものではないであろうか。

と、空想する。(30-31ページ)ここから読んでいいのは、第七官の世界は、前概念的な経験の世界であり、前の記述とあわせればそれを叙述することはできず、体験せしめることしかできない、ということだろう。そして彼女は霧のような詩を書こうと思うのだが、完成するのはありふれた恋の詩でしかない。本小説の終わりまで、彼女はこれこそが第七官の詩だ、と自負することはない。
また彼女は三五郎が音のずれたピアノをひき、同時に二助の部屋からこやしの匂いが漂ってくるときに、この二つがかさなって引き起こした哀感を第七官にかさねあわせもする。嗅覚と聴覚が重なり合ってひとつの哀感が誕生するのと反対に、「いろんな匂い」が交じり合ううちに、感官が「ひとつにとけあったり、またほぐれたり」(41ページ)するような生成作用もある。この感覚が第七官であるとははっきりとはいわれないけれども、「霧のような」といわれることから、完全に遠いわけでもないだろう。
しかし、どちらかといえば前者の複数の感覚がかさなりあってうまれるひとつの心理が第七官の姿であるのは、彼女が三五郎の寝床で寝入ろうとするときこやしの臭気と寒さから眠れない中、天井をながめるうちに見えてくる薄明のうちに感じる、井戸の底をのぞいているというような感じが、この

私は仰向いて空を眺めているのに、わたしの心理は俯いて井戸をのぞいている感じなのだ。

(76ページ)
といわれる感覚が第七官ではないかといわれることから、少しは彼女がいう第七感官も明確になってくる。ただこれ以上進めるためには、本作品の冒頭から書かれている、恋の要素を考えなければならないように思われる。

よほど遠い過去のこと、秋から冬にかけての短い期間を、わたしは、変な家族の一員としてすごした。そしてそのあいだに私はひとつの恋をしたようである。

と書かれた恋とは、具体的には112ページから書かれる柳浩六への片恋だけれども、彼女は柳氏から一枚の佳人の写真を見せられ、あなたはそれに似ている、といわれる。しかしそこにいた一助もまた町子自身もまったくそうは思えず、自らを佳人に遠いへだたりをもった一人の娘にすぎない、と考える。けれどもまさにその直後に彼女はその写真の佳人と自らを無区別と見なす、つまり同一視することになる。その辺りを引用すると

そしていつまでも写真をみていた。そしてついに私は写真と私自身との区別を失ってしまったのである。これは私の心が写真の中にいき、写真の心が私の中にくる心境であった。この心境のなかで急に隣室の一人が沈黙を破った。私にはどっちの声かわからなかったが、

(121ページ)
兄の声と柳の声の区別がつかなくなってしまう。ここでこういってよければ、ここには感覚の原子論がある。これだけではわからないだろうから、例を挙げる。
例は二つほどあげられるだろう。まずは95ページ。二助が栗を食べていると、栗の中身の黄色い粉がノートに落ち、蘚の花粉と交じり合う。それは「まったく同じ色」と形をしていて、その事実に感動した彼女は次のように続ける。

私のさがしている私の詩の境地は、このような、こまかい粉の世界ではなかったのか。

彼女が言う詩の境地とはなんだろうか。はじめにあげた例からは、それは複数の感覚がかさなりあったときに感ずる心情を指し示していた。つまりここではその心情が具体的にどういうものであるのか、が書かれているのだろう。この原子論的な無差別、文脈や脈絡が消え去った世界の例は、すでに上に書かれていた。その時はそうは読まなかったけれども、いまでは第七官が上のようなものであることを例証しているのではないか。すなわち

私は仰向いて空をながめているのに、私の心理は俯いて井戸をのぞいている感じなのだ。

本作品でいわれる、彼女がこだわる第七官に関しては、私にはこれ以上語ることはできないだろう。また、ここから本作品の恋愛について語ろうとして、語りを戻すことも難しい。



ひとつだけ書いておくと、彼女がしたのは「ひとつの恋」ではないと思われること、これが例証される仕方は大いにフロイト的で、つまり無意識のうちに文中に現れるような連想による。
まず先ほどあげておいた分裂心理について一助の蔵書を読んだ時、町子が考えた例は、二つあり、第一の例、再び引用すると「互いに抗争する二つの心理が、同時に同一人の意識内に存在する状態を分裂心理といい、この二心理は常に抗争し、相敵視するものなり」について寄せた想像の

男が一度に二人の女を想っていることにちがいない。この男はA子もB子もおなじように愛しているのだが、A子とB子は男の心のなかで、いつも喧嘩をしているのであろう。

と、もう一つ「分裂心理には更に複雑なる一状態あり。(…)」と続くものについていわれた、

これは一人の女が一度に二人の男を想っていることにちがいない。けれどこの女はA助を愛していることだけ自覚していて、B助を愛していることは自覚しないのであろう。それで入院しているのであろう。

であるけれども、このうち男性の例は佐田三五郎が独語した

僕は、このごろ、僕の心理の中に、すこし変なものを感じかかっている。僕の心理はいま、二つに分かれかかっているんだ。女の子の頭に鏝をあててやると女の子の頸に接吻してくなるし、それからもう一人の女の子に坂で逢うと、わざと目をそらしたくなるし、殊にこんな楽譜をみると………

(101ページ)
ここで言われている女の子は、前者が町子で後者が隣家の娘だけれども、ここでは予言的に先の分裂心理が表れている。すると同じく予言的に、彼女が女性の分裂心理とみた、自覚しない恋心も町子についていわれるのではないか、ということ。
それともう一つ彼女は三五郎の寝床に入っているときに第七官を感じた、井戸と夜空の同一視の場面だけれども、同じく天井を見上げていた(93ページ他)人物に小野一助がいること、そして彼は当時彼の患者であった、黙して語らぬ隠蔽性分裂の女性に恋をしていたことをあげておく。
(このような論証のしかたは、どうにも堅苦しくていやみっぽい(学校の国語のような)ので好きではないのだが、他に方法を思いつかない。)

本作品では、人物のさまざまな恋愛が重なり合う。そのような関係は本書で後に収められた「歩行」「こおろぎ嬢」「地下室アントンの一夜」でさらに複雑になるのだけれども、そこまで追うだけの余裕はない。それは尾崎が描いた人物の「一脈相通じた性情や性癖」によって、ますます人間の時間的断層のようにも思えてくる。
ともあれ、そのような細やかな心情の機微は、読者がそれぞれ読んでいくことでしか伝わらないだろう。そういう意味で、最後の段落は冗長に過ぎた。もう少し手短に書ければよかったのだけれど。