偶像崇拝 その禁止のメカニズム:M.ハルバータル/A.マルガリート

偶像崇拝―その禁止のメカニズム (叢書・ウニベルシタス 858)
モッシェ・ハルバータル アヴィシャイ・マルガリート
法政大学出版局
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偶像崇拝の禁止は、さまざまな変容を伴ってありとあらゆる言説の中に登場してきた。著者らは次の四つの例をあげ、それぞれが共通に批判の対象とした三つの概念、伝統、想像力、抽象化の図式に従って整理している。
1 一神教宗教における偶像崇拝批判
2 宗教的啓蒙運動*1また3では伝統を迷妄とみなすことによって捨て去ってしまう。

想像力と抽象化についても同様の検討がなされ、近代のイデオロギー批判に至るまでの変転が検討される。
事実、偶像崇拝(の禁止)の批判力は近代においても存続していた。ただし、近代においてはいくつかの操作、「代替・拡張・転倒」をともなってではあるが。ベーコンは偶像崇拝の反対概念を真の神から真の科学に代替する。ウィトゲンシュタイン偶像崇拝を隠喩的に拡張し、いわゆる否定神学的に、哲学の価値を定立する。またニーチェは偶像と一神教の神の図式を転倒させる、といったように。(「結論」)

そういうわけで、われわれは偶像崇拝の禁止についてはよく知っているし、われわれが知るいくつかの哲学的言説は大いにそれに結びついている。しかし偶像崇拝はなぜ禁止されたのか。そしてこの概念はどのような意味を持っていたのか、についてはどれほどを知っているだろうか。正直に言えば、私はほとんど知らなかった。本書では、その探求がなされている。以下、この記事では本書の概観を試みたい。しかし、その前に、本書の「結論」に従って、本書のねらいを明らかにしておいたほうがいいだろう。

偶像崇拝を巡るわれわれの議論は、何が排除されるかという共同体の思想を通じて、また「他者」に関する共同体の概念を通じて、共同体の自己規定を理解する試みであった。

(319)
偶像崇拝の禁止、は社会的にある機能を持つのである。それは「非異教徒と異教徒を隔てる厚い壁」である。ただこの壁は固定されておらず、偶像概念の定義は変化してきたのである。本書で見られたのは「四つの異なる偶像崇拝の概念」である。強引にだけれど、要約を試みる。

1 聖書的概念。結婚と政治の隠喩に基づいて偶像崇拝を「裏切り、反乱」とみなすもの。それぞれ一章と八章とで考察される。偶像崇拝は「妻が夫を裏切ること」や、主権者としての神への「挑戦」の罪だとされる。
2 形而上学的錯誤としての偶像崇拝。1で言われていたような神人同形論や、神についての誤った概念がこの批判の対象である。本書では主にマイモニデスの批判に即して見られる。2、3、4、5章で取り上げられている。
3 形而上学的には非異教徒と異教徒との差異は少ないものの、崇拝の概念によってそれとみなされる偶像崇拝。神のヒエラルキー有機的な統一のうち一部を分離し、それを崇めるという崇拝が批判されるもの。魔術や、植物の切断という非難がなされる。
4 崇拝の異質さ、間違った方法で(正しい)神を崇拝することへの批判。形而上学的差異ではなく、崇拝の方法が問題になる。

このような四つの概念は、それぞれ異なった対立を形成してきた。偶像崇拝が強力な範疇、直喩、隠喩として様々な言説に登場してくるのにも関わらず、偶像崇拝の概念、その壁としての機能は本書で見られるような歴史的変遷を通過してきた。(例えば、僕は前の記事でマリオンが神に存在やほかのあらゆる「概念」を帰することを偶像崇拝だと論じた本を取り上げてみたけれど、それは本書の区分では2に属するものだろう。)本書はこの複雑な概念について、何かしらの認識を与えるものと思う。それでは、以下に各章の概略を書いておく。何かの参考になれば、幸いです。

一章「偶像崇拝背信」では、神人同形論の枠内で、性的な罪(不貞)という隠喩によって偶像崇拝=異教の神の崇拝が罪に組織される過程がみられている。この隠喩でイスラエルは妻であり、神は夫だと考えられる。(15)偶像崇拝は売春、それも夫の金で支払われる売春であり、夫の忠節や愛情への裏切りと解釈される。売春は具体的な出来事、「アッシリアやエジプトとの誓約」などと結び付けられる。更にさまざまの隠喩的指示や展開の広がりが指摘された後、偶像崇拝の禁止の別の理由が示唆される。「この見解によると、偶像崇拝の重要な問題は、ほかの神々の崇拝ではなく、神人同形論的な表示を含む、神自身の不適切で誤った表示なのである。」(49)

二章「偶像崇拝と表示」は、パースの分類で表示の三分類、類似性、換喩(因果関係)的、因習、慣習的表示の分類から始まる。まず、類似性に基づく表示が「代理的錯誤」により徐々に物神*2崇拝に至る危険を持つということ、図像などによって神の姿かたちを表示することはそれによって神秘や距離を失する、いわゆる不適切な表示であるということなどが指摘される。ではなぜ、類似性による表示と異なり、換喩的表示が禁止されていないのだろうか。それは換喩的表示が上記のような神の概念の錯誤にむかうことがないからである、とされる。(65)その後、彫像や絵の作成と異なり、言語的表現が許されていることが問われ、言語と絵との区別はどのようになされているのかということ、また、マイモニデスは言葉と図像の両方を不適切な隠喩として退けたことなどが見られる。

三章「偶像崇拝と神話」では、聖書において神話がどう扱われているか、それらはどう関わっているかが問われる。聖書に神話の禁止が欠如していることの説明として、いくつかの説明が取り上げられる。(100)この問題に対して著者らは、聖書の中には「神話的間隙」*3が開けられている、という主張がなされる。続いて神話の四つの読み(文字通りの読み、寓話的な読み、類型論的な読み、秘蹟的な読み)が論じられ、このうち秘蹟的な読みが一神教の神聖な物語に浸透することによって、「偶像崇拝」の神話が一神教に現れることができる、と示される。

四章「誤りとしての偶像崇拝」では、偶像崇拝が「一神教的社会それ自体のなかで起こる何か」(148)に変化したことが確認され、「物質性」と「多様性」を神に帰すということを偶像崇拝の誤りとみなすマイモニデスがとりあげられる。記事の冒頭に取り上げた四つの批判を通じ連鎖する三つの概念の分析がなされる。

五章「正しくない神」では、神(神々)の同一性が問われる。(フレーゲ、ムーア、ローティといった)英米哲学の議論を参照しつつ、神について意図的同一性*4を充分にするものとして因果的条件と類似条件が検討される。一神教主義者とマイモニデスの考えはそれぞれ、上の「因果性」と「類似性」に対応し、一神教主義者が「正しい神」に言及できるのはその因果性、伝統、崇拝の形態、崇拝の意図によって保障されているのに対し、マイモニデスにおいてそれは神の固有名詞の絶対性と否定的神学による描写の虚偽性とが結びついた形態をとる、とされる。

六章「信仰の論理」。政治、イデオロギー的批判の形態としての偶像崇拝批判を考える。ウィリアム・ジェームズの「実行可能な仮説」という概念に照らして、信仰の論理を確認する。偶像崇拝の「大いなる誤り」が目的論的錯誤に結び付けられることを、アリストテレス(二コマコス倫理学)を通じて確認、される。「アリストテレスの説によると、自分の支配的な目的に従って生活しない人はだれでも大いなる悪の状態にいるのである」(231)。続いて、なぜ偶像崇拝の誤りは誤りを超えて罪に結び付けられるのかと問われ、*5信仰における自発性の契機が確認される。

七章「偶像崇拝の信仰から偶像崇拝の習慣へ」。「統一」概念が非異教と異教との形而上学的差異を縮減したことが見られる。その原因として「統一」の二つの側面(「有機的統一」「ヒエラルキー的統一」)が確認される。この結果として偶像崇拝の概念における強調点が「偶像崇拝の信仰」から「偶像崇拝の習慣」に移った、といわれる。「崇拝」を成り立たせる行為が問われ、有機的統一、ヒエラルキー的統一という両形而上学における崇拝の行為がみられる。反乱や魔術行為に同一視せられた偶像崇拝が、神聖なヒエラルキーをかく乱するという批判や、神の「一側面」の崇拝と見られた偶像崇拝が、有機的統一を「切断」(271)するという思想があげられる。最後に崇拝と意図との関係が分析される。いかなる意図、行為、状況が社会的に崇拝とみなされるのかの、さまざまな解釈が紹介される。

八章「偶像崇拝と政治的権威」では、宗教的言語における神の政治的主権の隠喩を通じて、偶像崇拝の政治的罪が見られる。神の政治的主権の独占性と、イスラエル君主制との間に、権力の代理と制限の関係が存在することが見られ、続いて、政治的主導者の自己神格化、その方法、それがどのような罪とみなされるか、などが調べられる。政治と宗教との権力を巡る対立。

*1:「宗教的啓蒙運動」というのはレオ-ストロースの呼称。「イヴン・ルシュッド、マイモニデス、トーマス・アクィナス」らが信奉した、理性が、神についての知識に権威を与えるという見解(宗教的合理主義)から推移した、想像力から発する神に対する誤りや幻想を批判する運動、とされる。本書366ページ、原注四章(4)))による民衆の宗教への批判 3 非宗教的啓蒙運動による宗教一般への批判 4 イデオロギー批判 伝統についてみてみよう。1では素朴に、異教はその伝統の誤りがその信仰自体の誤りとして批判の対称になる。2においては、伝統が権威の源泉でありつつ、その修正のために伝統を批判しなければならないという両義価値的な立場におかれることになり、そのため並行して発展する神学と哲学という「二重の真実」による調停がなされたという。((「二重の真実という教義は伝統的には二種類の真実、つまり、一つは哲学的な真実、また一つは宗教的な真実を指す。(…)個々の真実はそれ自体の枠内で正しいのである。(…)(哲学、神学上の矛盾はいずれは解消されるが、それまではどちらの見解が優先されるかについて)その教義は、哲学的主張が論証できる証拠によって支持されなければ、伝統に基づく宗教を支持する仮説がある、と考えるのである。」161ページ

*2:「物神とは。その対象物には力がないのに、人々が、力があるとみなす対象物である」59

*3:「「神話的間隙」は、神話的な創造物や出来事のお陰で、要求される完成が神話的物語となるための間隙である。神話的間隙が開けられるときはいつでも、数世代の過程を経てそれが神話として――新しい神話は元の神話とは違っているかもしれないが――蘇生させられる、と推察されよう。」103page

*4:「実際的な同一性というよりむしろ意図的な同一性」194

*5:「問題はいまや、信仰がもし意思や決意の問題でないなら、誤りを罪とみなすことがどうして可能なのか、という問題になる。」232