理性はどうしたって綱渡りです:ロバート・フォグリン

理性はどうしたって綱渡りです
ロバート フォグリン
春秋社
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本書では理性に内在する問題、つまり「理性を働かせることそれ自体の危うさ」といわれる三つの危機、すなわち絶対主義の幻想、相対主義の幻想、懐疑論が解説され、その解決策が考えられます。記事の以下では、本書の内容を概観してみます。


第一章では「無矛盾律」が検討されます。無矛盾律はそれを肯定することによって世界の変化を否定し「世界に究極の制約を課す」ものでなく、むしろ前提として「論証の基礎」となるということがアリストテレスウィトゲンシュタイン*1を参照し確認され、無矛盾律を肯定するか否定するかという態度を世界のありかたに結びつける考えが批判されます。また、無矛盾律の肯定においては、消極的論証が可能だといわれます。


二章では、無矛盾ではないことがわかっている体系、ジレンマの可能性がある体系をを使い続けること、がときに正当であることが主張されます。言語のよく知られているジレンマ、嘘つきのパラドックスも実質的に解決が難しいことが確認された上で、けれどもわれわれはそれを知り「危ない道を避ける」ことができるので、ジレンマの可能性をかかえた言語を使いつづけることはできる、つまり正当である、といわれます。
続いて道徳、法、規範の問題が取り上げられ、道徳体系相互間にもジレンマがあるということ(帰結論と義務論)が確認されます。その上で、このジレンマのなかでわれわれがある程度うまくやっていけているのは、(ゲームのプレイヤーはゲームに勝つことを目指す(=悪い手は避ける)というような)ある制約に基づいているから、ということが示唆されます。


三章。カントを参照し、知性が確実性という知識を追い求め、「経験的な制約」から概念を解き放ったとき、理性が「弁証的」になり、つまり空虚な駄弁に陥る、といわれます。これは幻想のような性質をもち、それが幻想とわかった後でもそのみかけは存続します。この幻想には二つの極があり、それぞれ「絶対的で無条件な存在を必然的なものとして」認めようとする極と、その根拠自体が相対的なものであると感じ出す極です。この往復運動が「弁証的幻想」といわれます。これを著者は思考の規則に本質的なものと考えており、思考する限りさけられない傾向としたうえで、その解決策として「非概念的なもので概念的なものに制約を加える」ことをあげます。

四章では、懐疑論のなりたちが説明されます。われわれが何かを知っている、というときには「関連する*2すべての対立仮説」が排除されていることが求められる、としたうえで、その関連の圏域が「吟味のレベル」として定義されます。三つの懐疑論(ヒューム的、デカルト主義的、ピュロン主義的)が詳細にみられた後で、これらの懐疑論が認識論に関わる際に遭遇する、それも容易に解決できない難問だとされ、認識論の企てが検討されることになります。
日常的に信念が正当化される場合、ありうる対立仮説が検討され、排除されることによるのですが、その際ある種の日常的な「吟味のレベル」が選択されています。また、それに疑問を抱かせるような事実が発見された場合は、必要に応じてその圏域を広げ、より深く吟味するわけです。しかし認識論の企てにおいては、経験的事実を考慮せず、「頭で考えることを通して」吟味のレベルをあげてゆき、懐疑論という難問に直面してしまう、という指摘がなされます。

五章ではその懐疑論の解決策が思案されます。ヒューム・ウィトゲンシュタインなどの著作から、観念を自然に従って定義する、つまり、非概念的なものに制約された概念の重要性が再確認されます。本書の主張は上に加え、三章でカントの引用「知覚なき概念は空虚である」を「経験によって制約を受けなければ、知的破綻を産み出してしまう」と解釈したこと、また本章でヒュームを取り上げ、懐疑論は「私たちが周囲の世界との因果的な関係に入ることによって乗り越えられる」(ここは端的な引用だと誤解を招きかねないので注意。詳しくは172ページ)と語られたこと、そして科学の成功が分析されることなどによって、おおまかな像を得ることが可能に思われます。

六章では美学が検討されます。ヒュームをもとに「人間の知覚や感覚」の一様性を基盤とし、それに経験による比較を加えることにより、美学の基準を定立する、と要約できるように思われます。本章は前章で言われた「非概念的なものの制約」を美術の鑑賞の経験として応用したもの、といえると思います。

七章「結語」は飛ばし、私見を述べて、この記事をまとめることにします。本書は理性のみに偏った思索が本質的に懐疑論や諸々の幻想に至ることを論証していて、その解決策として概念的なものの非概念的なものによる制約がいわれるのですが、私にとって新鮮だったのは、理性は本質的に懐疑論に向かう、と考えられていることでした。また、題の「綱渡り(Walking the Tightrope)」とは、懐疑論に陥るか陥らないかの綱渡りではなく、懐疑論を避け世界の中に思考を制約したうえで、思考を「誤りうる活動であり、賭け」として捕らえたうえで言われているものでしょう。本書は用語の基礎から解説されていますので若干冗長ですが、プラグマティズムの入門として、哲学書を読むならお勧めできると思います。

*1:「論理抵抗は何かの代理〔何かを写し取った記号〕ではない」…(無矛盾律は)「世界に対してはいっさい制約を課さない」(40-48)

*2:関連性の強い。「可能なすべて」ではない