存在なき神:ジャン=リュック・マリオン


われわれは、神は何よりもまず存在しなくてはならないという、形而上学出身の哲学者たちと新トマス主義出身の神学者たちとが一致して主張している自明の事柄を、問題視しようとしているのである。

マリオンは「存在する神」ではなく存在なき神を思考しようとしている。この記事では、その思考の詳細にまで立ち入ることができなかった。一、二章で、マリオンはハイデッガーまでの形而上学が、いかに神を存在もしくは概念に限定させる思考、偶像崇拝と呼ばれる形式に陥ってきたかを分析している。三章から後では、存在なき神の思考はいかにして可能か、が論じられるだろう。まず一章では、偶像をイコンと対置することで、その特徴が考えられる。


まず、偶像はどのようにして生じるのか。偶像は「まなざし」の機能として生じる。まなざしは志向(まなざされる方向)をもつ。またこのとき、まなざしはあるものに志向を満たすものとしての資格を与える。資格が与えられたものが偶像である。偶像はまなざしが停止する点、その志向対象、落下点である。(14)

偶像の機能はどのようなものか。まなざしが偶像の上に固着した後で、偶像は「見えない鏡」として働く。

(偶像は)まなざしにその像を、より正確に言えばその狙いの像、その狙いの射程の像を送り返す鏡として(働く)。

(16)
偶像が現れる前、まなざしが停止する前には、まなざしは「見えるものを透明性において貫いていた。まなざしは、見えるものを見てはいなかった」。偶像はまなざしにその射程を送り返し、まなざしに自らの限界を自覚させる。同時に、あらゆるまなざしの狙いは、偶像において停止するようになる。同時に、偶像はその彼方を、それ以降はまなざしが衰弱してしまうものとして、つまり狙いの衰弱として示す。要するに、偶像は自らは見えない鏡として、まなざしの狙い(志向)を尽くし、また諸々の見えるものを与える。それと同時に、「狙いの衰弱」として、狙いえないものを否定的に(見えないものとして)示す。

続けて、「概念的偶像」について述べられる。これが生じる過程も「まなざしが自己自身を対象の上に固定する」という偶像崇拝と相同である。つまり、

理解力がある概念に神的なるものを固定するのは、神的なるものについての概念作用が理解力をみたし、それゆえそれを静め、それをとどめ、それを凝固するときに限られる。ある哲学的止水が、それが「神」と名づけるものについてある概念を述べるとき、その概念はまさしく一個の偶像として働く。

この概念はたとえば、「自己原因」「道徳的な神」、無神論の神などである。マリオンは、この概念の偶像崇拝の問題を次のように指摘する。

この鏡において思惟は、それがどこまで前進したか、その位置づけを見えない仕方で受け取るのであり、その結果、狙い得ないものは固定された概念によって中断された狙いとともに、失格させられ、放棄される。(…)この概念においては、思惟が審判するのは、神よりもむしろその思惟自身なのである。

(22)

偶像と対蹠をなすのは、イコンだった。イコンはまなざしに「見えないものを見るようにと」招くという働きをする。イコンは偶像とは違い、まなざしを自己の上に固定させない。まなざしは、イコンをまなざすことによって、見えるもののうちに見えないものをみる。(25)
イコンはどのようにして見えないものを見えるものにするのか。イコンはわれわれをまなざす顔として現れる。(25)

この顔が見えるものになればなるほど、顔のまなざしがそこからわれわれを見据えてくる見えない志向も、見えるようになる。より適切に言えば、顔の可視性は、見据える不可視性を増大させるのである。顔の深さ、見据えるためにおのれを開く顔の深さのみが、イコンに見えるものと見えないものとを結びつけることを可能にし、この深さがそれ自身、志向と結合するのである。

(28)
見えるものの深みの中に、見えない志向が隠れている。この志向は「無限」に由来するといわれる。つまり、偶像がわれわれの感性(まなざし)の結果であるのとは反対に、イコンはわれわれの感性では捕らえることができない。偶像を見るということが鏡を見るようにわれわれ自身のまなざしをみることであるのとは反対に、イコンを見るということは、われわれが鏡となってイコンのような(他の)仕方で見えるものを見る、ということである。(30)

二章では上記の図式に従い、形而上学はいかに神に概念的偶像を付託してきたのかが考察される。本章の軸はニーチェハイデッガーだが、ハイデッガーの場合、事情は複雑になる。
ニーチェからみていくと、ニーチェは「道徳的な神」の死を宣言し、それによって可能になる「新たなる神々」の誕生を告知したのだが、これらの神々がおのれを示すことができるのは、それら神々が力への意思の諸形態であるとき、力への意思の審級に従うときに限られる、とマリオンは指摘している。(53)つまりニーチェは道徳的概念から神的なものを解き放ったが、それと同時に、力への意思に神的なものを閉じ込めてしまっているのである。

ハイデッガーの場合は、「神」について存在的な問いを問う前に、存在論的な問いを問わねばならないという、存在論的な問いの先行性という形でこの偶像崇拝、つまり冒頭にあげた、神の存在という偶像崇拝が見られる、とマリオンはハイデッガー存在論を引きながら論証する。(59)「神」への問いが可能になるのは、現存在の存在了解によってであるがゆえに、つまり、現存在が「神」に先行して「神」を限定してしまっているがゆえに、ハイデッガーの<存在>も、概念的偶像としての条件を満たす、とマリオンは結論する。(ただし、ハイデッガーがいう「啓示としての神」はこの論理に必ずしもしたがわない。p69-74)

形而上学の終焉である、ハイデッガーにいたり、「神」の概念的偶像も終焉の、<存在>にまで辿り着いた。「神」を存在と別のしかたで考えることはできないだろうか、とマリオンは提案する。ここでようやく、「存在なき神」、斜線の引かれた神が登場する。

存在なき神はいかに考えられるのか。「愛」の贈与として、とマリオンはいう。(113)そして、一つの問いが提出される。

アガペーは存在者の諸々の「存在の仕方」のひとつとしてはもはや現れないことができるだろうか。

これが本書を貫いている問いだった。以後、この問いが探索されることになる。存在論的差異が「世界」によって(126-131)、または(空しさなどの)情態性によって(「その情態性は(…)存在論的差異を失格させ」(164))狂わされうること、愛の贈与は存在論的差異に先立ち、それを与え、またそれをずらすものであること(139)、そして、愛が存在に依存しないこと(「ひとり愛だけが存在する必要がない」(190))、などを通じて。
しかし、この記事はその手前、マリオンの思想の手前で停止してしまうことになる。ここで恥らいながら告白すれば、私はこの諸論を一つに取りまとめる方法をもたずに停止してしまっている。おそらく、書き方を間違えてしまったのだろう。

そのため、甚だ不十分だけれど、ここで記事を閉じることになる。
最後に、著者であるマリオンには邦訳が少ないが、解説では本書の章毎の簡略で要を得た概略(こちらを読み返してみると、猛省)と共に、著者の思想が概説されており、役立つだろう。