ジョイス探検:小島基洋

ジェイムズ・ジョイス(1882-1941)はアイルランド・ダブリン出身の小説家で、代表作には「ダブリナーズ」「若き芸術家の肖像」「ユリシーズ」「フィネガンズ・ウェイク」などがあり、特に後二作における言語的実験は広く知られているところ。ただ、こうしたいわばあからさまな実験というのでなく、ジョイスの言葉遊びや、見立てといった隠された仕掛けは、「ダブリナーズ」からすでに伏在しているといる。本書はそういった仕掛けを読み取ろうとしたもの、といえる。(読んだ事のある人は、「ジェイムズ・ジョイスの謎を解く」柳瀬尚紀を思い出してもらえればよいかもしれません)

本書は、ジョイス作品の<奥深さ>をめぐる「探検」記である。

本書で取り上げられている小説は、ダブリナーズ、若き芸術家の肖像、ユリシーズ。アマゾンから目次を引用します。

第1章 妻の恋人あるいは空虚のヴィジョン―『ダブリンの人々』最終短編「死者たち」
断章 ノラの恋人あるいは空虚のヴィジョン
第2章 英雄たちの飛翔と墜落―『若き芸術家の肖像』
第3章 愛しき母の忌まわしき幻想―『ユリシーズ』第一挿話「テレマコス
第4章 浴槽に咲く一輪の花々―『ユリシーズ』第五挿話「食蓮人」
第5章 幻想を見る息子と共に息子の幻想を見ること―『ユリシーズ』第十五挿話「キルケ」
第6章 午前三時十八分、永遠の終わり―『ユリシーズ』第十八挿話「ペネロペイア」

一章は「死せる者たち」において丹念に隠されていた存在が、二章ではジョイスが仕掛けたダイナミックな対比が、三章はスティーヴンの「良心の呵責」の心理学が、四章と五章では変身/輪廻転生の一貫した論理性が、六章では意識の流れに隠された時間が、それぞれ分析されている。あまり贅言を費やして、本書の楽しみを奪ってはいけないだろう。しかし、本書の第一章、著者の思考の跳躍をみてもらうために少しだけ引用する。本書はこれからこのような発想の飛びを繰り返して、そのつどわれわれにジョイスの新しい読みをもたらすだろう。

「死せる者たち」を読むにあたって重要な、二連からなるアイルランド歌謡である、「おお、死せるものたちよ!」の第一連は、生者から死者への問いかけだが、著者はここから光景の光景のモチーフを取り出している。(「oh, ye dead!」参考:http://books.google.co.jp/books?id=H6oDAAAAQAAJ&dq=oh%20ye%20dead&pg=PA207#v=onepage&q&f=false

死せる者たちの目が放つ光に気づいた生者は、なぜ甦って現世を彷徨うのかを彼らに問う。「死者たち」を執筆するジョイスにインスピレーションをもたらしたのは、むしろここに見られるモチーフ<生者が死者の姿を目にすること>ではないだろうか。
短篇「死者たち」における死者・フューリーはグレタの甘い思い出の中にいるだけではない。実は、この夜、自らその墓を離れ、恋人グレタの眼前にその姿を現している。物語をじっくり読むと、そこに見え隠れするフューリーの姿を正確にとらえることができるのだ。鍵はこの詞の中にある。死者を見分ける際に注目すべきポイント、それは<光>だ。

(7)
光にも様々な光がある。小説の舞台では、どのような光だろうか。

また、例えば柳瀬訳「ダブリナーズ」でいえば370ページは、本書の読後には特に相貌を変えて映るだろう。ただの会話に思えるところに、なんと多くの意味が篭ったものか。

――仕事はなに?と、ゲイブリエルはまだ皮肉をこめて言った。
――ガス工場で働いていた、と彼女は言った。
ゲイブリエルは、皮肉が見当はずれだったのと、死せる者たちの中からこの人物を、ガス工場で働く少年を呼び起こしたことで、屈辱を感じた。二人だけの秘密の生の思い出に自分が浸りきっていたときに、優しさと喜びと欲望とにみちみちていたときに、この女は胸の内で自分ともうひとりの男とを比較していたのだ。[…]なんとも憐れむべき独り善がりの間抜け者。本能的に、明かりのほうへもっと背を向け、額に燃える羞恥を見られまいとした。

「ダブリナーズ」(370)


最後に、上にも書いたように本書で取り上げられたのはユリシーズまでの作品群だが、著者はあとがきで、フィネガンズ・ウェイクに挑戦することを予告している。大きな期待を込めて、待たせてもらいたいと思います。