雨の王ヘンダソン:ソール・ベロー


ヘンダソンはアフリカに行く。五十五歳であるけれどもその肉体は逞しく、彼の意思は「I want」(シタイ、シタイ)という欲望に発作的に突き動かされている。この無限定さ、抽象性はどこかバートルビーI would prefer not to.(できればしたくないのですが)を(正反対ながら)思い出させるかもしれない。冒頭から少し引用する。この辺りは話が錯綜していて、後で深められることになるモチーフ(豚の飼育や、割っていた薪が鼻にぶつかったとき、「真実」を考えた出来事)が出てきた後、「涙と狂気の日」について語られる。

前にも触れたことだが、ぼくの心の中になにやらうごめくものが、シタイ、シタイ、シタイ!といい続けている声がある。これが、毎日午後になるときまってしゃべりだし、押さえつけようとすると、いっそう強くなるばかり。一つのことしかいわぬのだ。シタイ、シタイ!と。

(三章、24ページ)
シタイ!と言う限定なき声はある極限の光景を恐れて、叫び続けている。四章、37ページ。朝飯の支度にきてくれていたお婆さんが、台所で死んでしまったとき、彼女の残していったもの、彼女の住んでいた小屋の光景は、その死からの逃走、無意味からの逃走を決意させ、彼をアフリカに向かわせるのに十分なものだった。

ああ、なんてこった、ああ、やりきれん。どうしてこんなことが、なぜこうなっちまうのか?いったい、ぼくらは何をやってるんだ。最後に待ち受けているのは、小さな泥の部屋、窓も無い小部屋。おい、ヘンダソン、ともかく踏み出せよ。うかうかしてると、この病でやられちまう。死に滅ぼされて、何ひとつ残りはせん、残るのはがらくたばかり。今までそうなんだから、これからだって、代わりは無いぞ。まだ何かがあるうちに――そら、今のうちに、何が何でも脱け出すんだ。

アフリカのアーニュイ族のところを去り、さらに奥へと向かってゆく。そこの王と出会いその叡智を知り、王は彼にとって尊敬すべき友となり、彼自身は例の「シタイ!」の熱狂そのまま、神の像を祭壇に運び、それによって雨の王になる。けれども、王や雨の王も、その部族の慣習、法を逃れることは出来ない。「ならず者たち」の冒頭の表現でいえば、車輪が回っている。王ダーフも、いずれ法によって処刑される運命にある。このようにいわば徹底的に制限された状況にある王ダーフは、それでもなおいくつかの方法で逃走する。そのひとつがライオンの飼育だけれど、そればかりか彼はライオンに「なる」ことができる。「なる」は本小説においては「在る」の対を成す概念だ。生成と存在。ヘンダソンも生成を求めているけれど、これについては後で読んでみることにしよう。


本小説では、量りを超えたものについて、何度も言及されている。いくつか見ていってみよう。ヘンダソンとその「シタイ」という欲求について。

王よ、利害を超越した純粋なことをやりたい――より高いものに対する信念を表現したいという強い望みをいだきながらも、じつはさまざまな問題を引き起こしてきた男です。

(十三章)
また、ダーフ王が語る暴力の連鎖とその停止。

AがBをうち、BがCを打つ――
……
で、悪が無限だとは信じないぞと叫びながら、打撃の海の中へ身を投ずるのです。多くの勇敢な連中が、こうして死にました。

(十五章)
我々をとりまく車輪について、崇高のみに留まってはいられないこと。

なるほど、崇高の瞬間には、旧も新もすっかり消えうせ、ただ私たちの営みを人間的な弱ささえも微笑をもって受け入れてくれる醇乎たる実在のみが在る。……それにしても生命の戯れは、認めねばなりません。人間の営みをやめるわけにはゆかぬのです。

(二十章)
などがある。このようなものに対立することで、例えばヘンダソンのアフリカ行きのように、緊張をもたらしているのはいったいなんだろうか。


初めのうちは、「シタイ」ともっとも対立するものは、想像だといわれる。それははっきりといわれている。

「こういう体験こそ、ぼくには何とも貴重なもんです。奇妙とか幻想だとかなんて問題にもならない。幻想なんかとは違うと、すぐわかりますよ。シタイ、シタイと言い続けてる声を聞くのがどんなことか、(……)」

(十六章)
ただ、この二つは彼のこの断言とはまったく逆の関係にあるのかもしれない。なぜなら、ダーフ王の考える心理学(十七章参照)では、身体の脳への従属が、存在の変容をもたらす意思がいわれているからだ。王はヘンダソンにいう。

あなたは、自分から逃げ出そうとしてきた。このまま、死んではならぬとかんがえられた。で、もう一度、最後に今一度と、世界に乗り出していらした。変わりたいという希望をもって。
……
新しい習慣を作り上げなくちゃならんのです。

(18章)
この変化は、具体的にはライオンの真似をすることでなされる。(「その感じ、ライオンに成り切るんだ。人間性などは、すぐあとでもどってくる、今のところは、ひたすらライオンに成り切るんです」)
ヘンダソンの「シタイ」が内容を持たなかったことの意味が、この辺りでようやくわかってくる。それは想像を否定するのではない。むしろ想像を現実にするためのきわめて強い熱狂であることが、われわれに知られる。

「要は、皮質のなかに、望ましいお手本を持つということです。崇高なる自己のイメージどおりに、人間はなるものです(……)」

(同)
王は続けて、想像力は人間における自然の力、つまり自然とは本質的に想像力をもっているという。人間がなにものかに「なる」ことができるのも、想像力によるのだ。「シタイ」の声はつまり、阻害された想像力の叫びだった。ここは本作品のなかの要をなしているように思われる。興味を持ったら、ぜひ十八章全体を読んでみてほしい。

「シタイ」の声をもたらす想像力は、「私」には属していない。それは主体化より前の段階であり、組織化よりも前なのだろう。十九章末尾。

「僕の中に、シタイ、シタイと叫ぶ声が聞こえる。いや、その主体はぼくというより、彼女であり、彼であり、彼らであるべきだった。また、現実を現実たらしめるのは愛である。反対物はおのずから反対を生む」

補足すると、愛も自然に属している。(十八章)王がライオンを愛することや、ヘンダソンがその想像力の混濁した状態でいること。ヘンダソンは妻への手紙のなかで、彼女への愛について、観念のよくわからない混乱のうちにいることを告白する。その混乱こそが彼をアフリカへとつれてきたものなのかもしれない。

カントやサドにラカンが見出したような享楽の構造が、この小説にも見出されるかもしれない。それは本作品では「シタイ」「崇高の瞬間」「正義」「ほんとうの自分」と表現されていると、考えることが出来るかもしれない。それは具体的に何をするのか。それは慣習、「リズム」を変化させる、とまではいかなくとも、それを可能にするもの、その条件だということはできるだろう。それは慣習に緊張をもたらす。習慣から完全に逃れることは出来ない。先に引用した王の言葉でも、王の死によってもそれは示されている。(「それにしても生命の戯れは、認めねばなりません。人間の営みをやめるわけにはゆかぬのです」)
しかし同時に想像力についてみたように、われわれが変化にリスクを伴って賭けるだけのチャンスだけは残されている。そしてそれこそがこの作品を、非常に明るく、希望をもたせるものにしているように思われる。


著者のベロー氏についてのwikipedia
ソール・ベロー - Wikipedia
また、本書は絶版ですが、原書ならamazonに在庫があります。
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