君は今夢を見ていないとどうして言えるのか:バリー・ストラウド

本書では、「われわれを取り巻く物理的世界について、われわれは何も知ることができない」という懐疑論的テーゼが検討される。この外界の知識への信頼が一挙に揺らぐこととなるテーゼと、その哲学的反対論の検討を通じ、われわれの持つ哲学的知識理論はどのようなものか、を明らかにするというのが本書の試みだといえるだろう。

一章では、デカルト懐疑論的テーゼが紹介され、その論理構造が詳しく見られる。「省察」の第一章で、デカルトは暖炉のそばに腰掛けて紙を一枚手にしており、世界について何事かを知るのに最良の状態にある。このような理想的な状態で得られた知識を疑うべき理由があるのならば、それは同様に感覚によって知られる世界についての知識全体を疑う裏づけになるのである。
デカルトはたとえこの状態でさえ、われわれは夢を見ているという可能性を排除することはできないのだ、と続ける。夢を見ていればわれわれは外界に対する正しい知識を持つことはない。つまり、夢を見ていないと知っているということが、われわれが外界に対する知識を持つのに必要な条件なのである。
このデカルトの論について、ストラウドは懐疑論の反駁につながるかもしれない、三つの問いを表明している。すなわち、
1.デカルトは夢を見ているかもしれないという可能性は、自らを取り巻く世界について彼が持っている知識に対し、本当に脅威となるのか。
2.自らを取り巻く世界について何かを知っているためには、自らが夢を見ていないと知らなければならない、というデカルトの考えは正しいのか。
3.自分は夢を見ていないということは決して知りえない、ということをデカルトは「見出した」とされるが、それは正しいのか。
(34)
長い考察の後注目されるのはこの二番目の問いである。つまり夢を見ていないと知ることは知識の必要条件なのだろうか、という問い。勝手に言い換えてよければ、夢を見ていないと知ることが、あらゆる知識を得るために、排除されるべき対立仮説なのか、という問いだろう。この問いが二章以降で詳しく見ていかれることになる。

以降、二章ではオースティン、三章ではG.E.ムーア、四章ではカント、五章ではカルナップ、そして六章ではクワインの論理がそれぞれ60〜80ページほどを費やして検討されてゆく。それぞれの詳細に立ち入ることはできないが、本書で行われる考察がどのようなものかを確認するために、たとえば四章を見てみよう。

他の章と同じく、まずカントの理論が詳しく説明される。カントは、懐疑論に陥る知識理論は、外界の事物を知るときに、推論を介して間接的に知ると述べるものだという。その反対に、カントにおいては「推論される必要がなく、直接に知覚される実在性」が必要とされる。カントの理論に従えば、われわれが世界を知るために立っている場所は、デカルトのそれ*1とは違い、次のようなものになる。

私が外的な対象の実在性に関して推論を必要としないのは、私の内観の対象の実在性に関して推論を必要としないのとまったく同様である。(A371)

(218)
続いて、カントの前提していること、彼の論の帰結についてやや詳しくみられる。
日常的な信念に正当性を与えるのがカントの狙いである。外的な事物の存在証明と、その存在証明によって存在を証明することが一般に可能であることが証明されなければならないのである。(227)そのため、カントの知識理論への要求として以下のテーゼが提出される。

われわれを取り巻く世界との関係でわれわれが日常的に立っている場所が「正当に取得され所有されたもの」であることを示すためには、カントが念頭においている実在論が立証されなければならない

(231)
続いてこの立証に必要な、二つの問いが問われる。

第一に、カントが立証したいと考えている実在論のテーゼとは、正確に言うと実際のところどういうテーゼなのだろうか。すなわち、(…)カントが立証したいと考えている実在論のテーゼは、そもそもどのようにして表現すべきであるのだろうか。
第二に、カントはこうした実在論のテーゼを、実際にはどのようにして立証しようとしているのだろうか。

(231〜232)
まず、カントが懐疑論に対して為した反駁の詳細が見られる。カントは、「懐疑論的論法は、その論法自身が一貫していることを承認しうる前提から到達するところの結論を決して手にすることができない」(234)ということを証明したい。つまり、懐疑論は必ず失敗することを証明したいのだが、これはデカルトの説に相対させることで次のように変わる。デカルトの考えでは、事物の表象や現れは外的な実在に対して「認識論的なプライオリティ」を持っており、つまりわれわれは「直接に自覚される実在性」にしたがって事物を認識しているのではなく、感覚による経験に基づくことによって知られるに過ぎない、また外界がなくとも経験がありうる、ということが帰結する。反対に、カントはこの認識論的なプライオリティを否定するだろう。このことは次のテーゼを立証することによってなされる。

われわれは外的な事物に関して単に想像するだけでなく、経験もしている。そしてこのことは、われわれの内的経験、すなわちデカルトがもはや疑い得ないとした経験すら、外的経験を前提してのみ可能であるということを証明しうるときにのみ、成就せられうるわけである。(B275)

(241)
ここでストラウドは、これは個々の経験についてその正しさを証明するものではない、と指摘する。「感覚による経験に外的な実在が対応していることを常に立証しなければならないとしたら、うまくいくことは決してありえないとカントは考えているのである」。
そうではなく、「内的経験一般」が可能である条件は「外的経験一般」(外的な事物を直接近くすること)が可能であることである、ということが立証されたとすると、錯覚の可能性や構想力のきままな活動(夢など)によって、「懐疑論がもたらす完全に一般性を持った脅威」が生み出されることはありえない、というものである。つまり、個々の懐疑は避けられないが、デカルトが行ったような「感覚による知覚のあらゆる場面に拡張すること」は避けられる、不可能とされるのである。(以上246〜247)
それでは、カントはいかにしてこの場所にたどり着くのか。観念論によってだが、彼の観念論は他のそれと違い「超越論的観念論」と呼ばれる。彼の観念論は実在論、つまり経験的実在論を保障するために必要とされる。この超越論的観念論が前提されないとき、知識理論は不可能になる。そして、この超越論的観念論は、デカルト(とムーア)の、経験的なレベルでの実在論と観念論の対立を解決するものである。(261〜266)
ここまできて(50ページ以上!)、ストラウドはようやくカントの観念論の批判的考察に移る。いくつかの困難が提出される。第一のものは、我々がカントの仕方で反懐疑論を理解できるとしても、それは超越論的観念論がどのようなものであるか、理解できる場合に限られるということである。また、循環が見られる。つまり、カントが行った特別でアプリオリな吟味の理解にしたがってのみ、超越論的という彼の概念が理解可能なものになるのだが、このアプリオリな吟味が可能であるためには、超越論的観念論が真であることが要求されているのである。(268)さらに具体的には、彼が「直接知覚する」「われわれから独立した」という用語を超越論的に使用する場合、この用語はあらゆる感覚経験から引き離されたところで使用されており、我々には理解不能に思える、という問題もある。

また第二の問いとして、彼がいわゆる超越論的実在論ではなく、超越論的観念論を選択するのはなぜか、というものがある。この理由としてカントは「超越論的な説はわれわれが知識をもつことはどのようにして可能かを説明しない」という批判をもって答える。ストラウドは、これがカントの拒否の唯一の原因だという。カントは「超越論的感性論」「第四誤謬推理」「観念論に対する論駁」において、知識の説明を可能にするから、という理由で超越論的観念論に到達しているのである。(276)
しかし、ストラウドがいうように、これは実際次のような二者択一を迫るものでしかありえない。

このことは、「超越論的観念論をとるか、さもなくば、説明がまったく存在しないのに我慢するか」と述べることと同じであるように見える。

(277)
つまり、カントは懐疑論的な問いをずらしただけのように思われるのである。さらに、カントは日常的な知識の客観性を証明したわけでもない。(外的経験一般ではない)個別の外的経験は、悟性の気ままや錯覚によって欺かれることがありうるのだった。このようにして、我々はカントの知識理論がそれ自身満足のいくものではない事を確認するのである。


ざっと見てきたように、非常に込み入った、深入りした検討が為されている。この著作の中心をなすのは、実に緒論の意義を確認する作業である。この長さを読み通すのは決して簡単ではないだろうし、全体の理解をしっかりとこなすのは尚大変だろう。今回はそのわずかながらの紹介を試みた。本書を通じても、この問いは未だ解決されておらず、更なる吟味を通じてのみ達成されるものである。それでも、哲学者それぞれの論に即した「解明」を通じて、我々が得ることができるものは多いだろう。

*1:「われわれのたっている場所は、当初思ったよりも限定的で、貧困なものとなる。われわれにとっての限度は、せいぜい、われわれを取り巻くものごとの「観念」とデカルトが呼ぶものの範囲までである。つまり、ものごとや自体についての表象の範囲までということである。そして、われわれが何を知ることができようとも、表象に対応するものが実在の側にあるのかどうかはわからない」63ページ。また、詳しくは61〜73