ラディカル構成主義:エルンスト・フォン・グレーザーズフェルド


本書でグレーザーズフェルドはピアジェ認識論の読解を通じて、自らの認識論的立場、ラディカル構成主義の理論を説明している。二章終わりに、ラディカル構成主義の原理が提示されている。

・知識は感覚やコミュニケーションを経由して受動的に受け取られるものではない。
・知識とは認知主体によって能動的に構築される
・認知の機能は、生物学的な意味で適応的なものであり、適合や実行可能性への傾向性を有している。
・認知は主体による経験世界の組織化の役目を果たすのであって、客観的な存在論的実在を発見しているのではない。

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つまり、実在を想定せずに(「論考」のウィトゲンシュタインの像と現実との一致、カントの超越論的哲学における実在の措定など。またイギリス経験論にも実在への通路は見られるといわれる)、経験からの組織化によって認識を構成する実行可能な(ありうる)理論、というのが根本的な立場と言えるだろう。この思想はピアジェサイバネティクスの思想に多くを得ている。

ピアジェはいかにしてわれわれは経験の流れの中から比較的安定した、そして整然とした像を構成できているのか、という問題を説明する「実行可能な」(解説を参照)モデルを製作したという。(141)三章では、前掲の各テーゼがピアジェの思想の中に確認される。例えば、ピアジェにおいて知識は行動から生じる。行動は知識を組織化する、目標指向的な活動である。(138)(「対象を知るということは、行為図式(シェム)の中に対象を組み入れることを示唆しており」*1 )
続いて成長における組織化の例として二つのモデルが示されている。「経験的現実の構成」(143〜150)では幼児が「あらゆる個人の現実の根本的な構造をなす基本概念が、そのような構造が生得的に存在するという前提なしにどのように成立しうるのかが明らかに」される。また「反射から図式理論へ」(151〜165)では、反射(刺激→反応)の基礎的な機構から、いかにして学習が成立するのかが解説される。(ここで定義された調節、均衡化概念は後にサイバネティクスの理論と接続される)
四章ではチェッカートの脈動的注意の研究に依拠し、個別的同一性(今経験している対象が、以前経験したあるものと同一であるという、持続性(148))の概念から変化、動作、空間、時間、因果といった概念が構成されることが示される(図示される)。
五章では、ピアジェにおける抽象概念が非常に詳しく見られる。反省と抽象とのかかわりが指摘された(214)後で、グレーザーズフェルドはピアジェが抽象を観察可能な特性に関する(対象から特性を抽象する)「経験的抽象」と協応に関する「反省的抽象」に区別し(235)、さらに後者の抽象を三つに区別しているという。(240〜246)特にすでに構成されている構造から、特定の協応を借用し新しい問題において再構成する反省的抽象と、反省への自覚を伴う(「反省的思考」とよばれる)第二の反省的抽象の区別が強調される。

つまり、一番目のタイプの反省的抽象と疑似経験的抽象の場合には、「反省」という言葉はほかの操作レベルでの投射や調整された組織化として解釈するべきである。そして、二番目のタイプの「反省された抽象」の場合には、この言葉は意識的思考として解釈するべきである。

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六章を通じて構成主義の認識論的立場が概説される。知識が実在、環境との対応を持ち得ない以上、「知識は何と関わり合いを持っているのだろうか。そして、何が知識に価値を与えているのであろうか」(262)。二つの原則が導入される。一つ目は知識獲得はそれ自身が目的なのではなく、主体が経験する経験には好ましいものと好ましくないものとがあるために、そのうち好ましいものを繰り返すための、目標指向的な行為に寄与するものだということである。二つ目は、知識は世界を表象しているのではないというものである。これらの原則から、知識は「世界を経験する際に世界に適合するために、認知主体が概念的に発達させた手法と手段に付随するもの」であるという知識観が導かれる。続いて、主体の世界構築の源泉を厳密に経験に限定するこの立場からわれわれが世界についていだいている概念がいかにして発生するか、が説明される。いわく、客観性に替わる間主観性間主観性を確証する他者が考えられた後、自我の分析がされる。経験の中心としての自我と知覚的実体としての自我が自我の構成の基礎としてみられ、特に詳しく見られる。自我が経験を内的なものと外的なものとに分割したのち、それでも内的な経験と外的な経験を両方経験する自我は「自分自身が他の事物の中に含まれる一つの事物であるというふうに考えることはない」(288)ことが示される。同時に、感覚シグナルが手がかりとなることで、われわれが自我の感覚を他者と区別することを学ぶことができ、こちらは知覚的実体としての自我を構成する。これらの自我の二側面は、社会的自我の段階に至ることで関連性をもつようになり、この社会的自我が倫理の基礎となることが示唆される。

七章では構築主義の立場から、言語やコミュニケーションが考えられる。ソシュール的言語観に再現前化を連結している点が独特である。ヴィトゲンシュタイン言語ゲーム論を通じて確立しようとした「意味と真実という概念を論理的な確実性へと」もたらす試みは失敗した、とグレーザーズフェルドは指摘し、集団において単語の意味を「共有する」というとき、それは意味の同一性を支持するのではなく、心的構成物の文脈における両立可能性を示唆している、という。意味は個人的に構成され、適応によって洗練されていく。(314)ついでこの言語観がどのようなコミュニケーション理論を支持するかがみられる。

続く八章ではこれまで展開してきた理論がサイバネティクスの観点から再定義される。行為を調節することで入力を制御する(参照に感覚シグナルを一致させる)、フィードバック概念と、より複雑なシステムにおける学習概念が詳説され、それらがピアジェの認知理論(をグレーザーズフェルドが再構成した理論である、図式理論。154-165ページ参照)に接続される。ここでは予期からの逸脱としての撹乱、新しい調節を生む撹乱はネガティブ・フィードバックと等価になり、図式概念とマトゥラーナの生命システムの有機的構成に、同じ帰納的原則がみられることが確認される。

九章と十章ではこういった理論が数と教育に応用され、ラディカル構成主義の可能性をしめしている。最後に本書全体についていうと、叙述は明快だけれども、本書の大半がピアジェの理論に即して展開されているためにピアジェについてなんらかの知識を得ていないと読みづらいだろう。ピアジェ自身による入門として、以下を勧める。

また、本記事をかくにあたって「ピアジェに学ぶ認知発達の科学」をその都度参考にした。

*1:シェムとは一般化された行為(例えば「掴む」など)で、主体はシェムを用いて対象に対応する。シェムは思考の水準における概念に相当し、概念を用いて判断(あれはAだ)するように、シェムを用いて対象を同化する。(同化は判断に相当する)同化の際には必ず調節が伴い、一般的であるシェムを個別化する。(同じくものを掴むにしても、様々なつかみ方があるというように)同時に、調節はシェム自身に作用を及ぼし、新しいシェムを作る(学習)。この同化と調節という二極の全体(均衡)を適応という。ただし、調節についてのグレーザーズフェルドの解釈は異なる。彼の「図式理論」では調節は予期された結果と実際の結果が異なるときにのみ生じる。したがって同化は既存の概念構造(シェム)に判断を適応させるプロセスとなる。