アメリカの鳥:メアリー・マッカーシー

本作品では多くのことが描かれる。アメリカのロッキーポート、イタリア、フランスを主要な舞台にして、十九歳の青年ピーターの成長を描く、成長小説のようなつくりになっている。けれども、そのすべてをここで見てゆくことは出来ないので、彼の倫理(の変遷)についてのみ読んでゆくことにする。

ピーターはカントの倫理を何度も口にすると同時に、アリストテレス的のような貴族性も持ち合わせている。彼の母の影響かもしれないし、彼の血統の自覚によるのかもしれない。
母は、(例えばその料理法において)アメリカの伝統を重視するけれども、それは恣意的なものに留まっている。彼女が重視する伝統と、重視しない伝統が少なくともあり、結局は後に登場するベジタリアンロバータのように、普遍的ではなく好みでしかない判断基準に従っている。本作品に登場するロバータも母ロザモンドもまたピーターも、そのような恣意的な価値観をもち、自己の正しさを疑わない人物のように見える。
またピーターは二つの規範を持っているように見える。自分とその近しい人への贔屓といった感情と、全人類の平等との。これらがはじめて対立する場所では、母が関連している。母親は、警察とのトラブルで拘置所に入れられる。警察は法のもとに平等であるべきであるという信念と、拘置所は母にとってふさわしい場所でないという信念が対立する。

警官には、実は、その人間が何者であるか知ってはならないという義務があるのだ。母が人々の説得を受け入れて自分の知名度を利用するとしたら、そんな母を恥ずかしいと思う。…………そんなことは「みずからの法となるように努めよ」といったカントの教えにも反する。…………母は、チェンバロ演奏家だと「知って」いるマージェリーのような人たちから、おもねられることに慣れていたからだ。もし警官がそれを「知って」いたら、母を丁重に扱い、母の自尊心はそれで満足していただろう

(114)

ピーターはフランスの大学に進学し、その国でカント的な倫理を実践しようとするけれど、上手くいかない。行動規範は好みではなく、それは「普遍的合意」(177)であるといわれる。しかしそもそもピーターがイタリアから政治的な理由で亡命したユダヤ系の父とアメリカの伝統を重視する母という両親をもつアメリカ人で、また彼がアメリカ、イタリア、フランスのすべてを相対的に観察しているようなのは、個々の問題については普遍的合意など存在しえないことを教えるためだったように思える。ピーターは中盤の手紙で、平等が亡霊的なものだと語っている。

もちろん、平等とは、マルクスの語っていた亡霊、すなわち共産主義の亡霊であり、それは今でもそこらじゅうを徘徊し、どの国においても一度も肉体を与えられないまま地球上をさまよっています。それはまだ幽霊の三分の二なのです。……
……母さん、僕は発見をしました!歴史上のいつの時代にも、平等が議題に上ってくると、とたんにそれは何か有害なもののようによそに運ばれていったのです。

(185)
一方で公民権運動や、ベトナム戦争が大きな問題として語られている。国家内にも、また国家間にも格差が存在している。もう一方でピーターの身近には、いわゆるならず者たちが、彼にとっては厭なものとしてあらわれてくる。もちろん、これは私たちにも身近すぎる分裂だ。ピーターはまるでニーチェのように、「階級の無い理想像を表現する単語」(183)を夢見る。言葉には過去が埋め込まれている。システィーナ礼拝堂のプット(343)のように。またおなじように、普遍的ではなく、共同体的にのみ妥当する合意(つまり慣習)には、過去は伏在している。これに対立するのが、普遍的な規範だ。それは歴史を持たない。それはこういってよければ、自然だろう。

しかし、本作品で、自然とはなんだろうか。ピーターが幼少期慣れ親しんだ自然。単に人間の手を離れたものか、それとも調和か、また歴史を持たず、不変なものなのか。ピーターがロッキーポートに四年ぶりに帰ってくるとき、彼がかつて自然に見出したあらゆるもの(ミミズク、鵜、滝)は見出すことが出来ない。自然に不変の相はないかもしれないが、ただ単に、すでに自然が失われてしまったことを示すだけなのかもしれない。
また、十五歳のピーターにとって、自然は以下のように映っていた。

(学校の自然観察班に入らないか、と進められて)ピーターはその提案を断った。自分と「自然」とのつながりを、他人によって準備されたり管理されたりするのはいやだった。
実を言うと、あの保護区を取り巻く神秘的雰囲気と、(わかっているかぎりでは)自分と母しか知らないという点が気に入っていたのだ。

(24)
少しだけ、母が関連している。母はある意味で、アメリカ人のイデアの、正統な子孫でさえある。

バッボはいつも、自分が出会った中でピーターの母は「本物のアメリカ人」と言える最初の女だったといっていた。「本物のアメリカ人」とは昔のピューリタン入植者の子孫と言う意味だ。

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ともあれ、自然はピーターの外にある。そして、その間にはある種の本来的なつながりがあるようだ。それは他人には準備されない、独異的な繋がりのように感じられている。その感覚は近代科学への不信感、エリート主義的(または独我的)な自己愛、また一見それとは正反対に思えるカント的倫理と普遍法(定言名法)にすら、つながるもののように思われる。

最後のピーターの朦朧とした意識のなかの問答で、この観念の複合のうち半分が否定され半分はそのまま残る。否定されるのは自然のうちの普遍性だろう。なぜならここで自然はこのような切断面であらわれるからだ。

つまり、世界の美しいものは、人間が世界のためになるようにできていて、世界に上手く適合しているということの証拠であり、さらに、人間の知覚によるものの認識は、人間の知覚の法則と一致するということを証明している、と。

ここでいわれるような本来的な一致は、人類の調和を導くものだった。それが否定されるけれども、何かが変わったというような気はしない。それはこのことが、彼、ピーターが経験してきた世界と人間の様相に他ならないからだ。もし彼が夢から覚めたとして、彼が以前とそれほど変わることは無いように思えるのは、それは本作品全体を通して深められてきた対立の改めて為された言明でしかないからだ。しかしその対立を自覚することにしか、前に進む可能性はありえないだろう。倫理の適用不可能な事例は現実において無数にある。本作品では人々の間に埋めようのない不一致が存在しつつ、その人々、こういってよければsituated selfが同じ世界に存在するということが描かれている。