心を自然化する:フレッド・ドロツキ

とても面白かった。
ドレツキが表象主義テーゼと呼ぶものをまず書いておきます。これに従うことで心的現象に関するどのような理解がもたらされるか、を示すことが本書の目的だからです。

(1) すべての心的事実は表象的事実である。
(2) すべての表象的事実は情報的機能に関する事実である。

このテーゼに従う形で、心的現象、特に経験、クオリア・感覚、表象や誤表象、思考などのテーマについて説明を行ってゆく、というのが本書の内容。本書の全体を概観することは出来ませんが、少し抜き出して書いてみます。

二種類の表象がまず区別される。自然的表象と規約的表象。(7)規約的表象とは設計されたシステム(温度計、圧力計、速度計……)が設計された機能にしたがって表象するだろうもののこと。つまり「設計者、製作者、使用者の意図や目的から派生してきた」もの。自然的表象とは規約的でない表象、と定義され、感覚システムや概念(思考システム)など、心的状態が含まれ、先ほどの表象主義テーゼは

すべての心的状態は自然的表象である

(10)
と修正されます。

また、心的状態、つまり自然的表象において更に「概念的表象」と「感覚的表象」が区別されます。これは「気づく(意識化する)」ことと、「経験する(見る、聞く、味わう、……)」ことの違いにも相当します。これは後に「見えd(doxatic)る」と「見えp(phenomenon)る」の差異とも関連して、要するに本文全体に関わり重要です。
更にこれらの表象機能がどこから由来しているかの差異に基づいて、「表象s」と「表象a」の区別の導入されています。「表象s」は

(1)ある状態は、その表示機能を、したがって表象としての身分を、自らが属しているシステムから得ているかもしれない。

他方「表象a」は

(2)他方、あるトークン状態は、その表示機能を、自らが一状態として属しているシステムからではなく、自らがトークンである状態のタイプから得ているかもしれない。

とされますが、この差異については、例えば車軸の回転を表象する(目盛りで表す)単純な速度計があるとして、タイヤの大きさにあわせて回転数に応じた速度は変わりますから、同じ位置に小さいタイヤ用には50km/hと書き込み、大きなタイヤに接続される場合には60km/hようなもので、こうして表象された「時速50km」や「時速60km」は「表象a」であり、また、どちらにしろ車軸の回転は同じNrpmを「表象s」する、と説明されます。(16)

この「表象s」「表象a」の違いは、そのまま動物の感覚に適用され、経験は「表象s」、それによって生ずる信念は「表象a」であるとされる。よって

経験は、表象的性質が体系的である状態にほかならない

というふうに、経験が定式化されます。

また、内観(表象を表象として表象すること/メタ表象)についても表象主義の立場から演繹がされる。内観的知識は、「心の中になにがあるか」つまり「事物はどう表象されるか」を表象する。そして内観的知識、自己知が知られる方法は

自己知とは、あるシステムが、それ自身ではなく何か他の物を知覚することによって、(自信についての事実を知るために十分な)それ自身についての情報を得る過程なのである。心の表象理論においては、これが一人称権威の源泉なのである

また

内観を、外的対象を表象する(知覚する)ことによって内的事態についての情報を得る過程と考えれば、

(65)
といわれる、つまり知覚過程において、表象システムについての情報がえられる(表象される)ことによる、といわれている。これは心のうちを「眺める」ことによって内観が生ずる、という論に対置されています。(また心の表象理論は心についての外在主義的理論なので、それが一人称権威と反発しないことも同時に論じられている。ともあれ、今は内観の発生に絞った)

またクオリアについても、これを表象主義テーゼに従ってあつかう、つまり「クオリアは現象的性質に他ならない、すなわち、ある対象がもつと感覚的に表象される(表象sされる)性質にほかならない」と考えることで、クオリアをうまく扱うことに本書は成功しているように思える。これによりクオリアを機能的に還元する方法がおちいる困難を回避しつつ、経験に伴うクオリアを理解する方法が提案可能になる。それは

クオリアとは、問題になっている感覚様相において事物が見えるあるいは顕れる仕方である

ことと

事物が見えかたどおりであるときには、クオリア、すなわちその経験を持つとはいかなることかを定義する諸性質は、知覚が正しいときに知覚される対象が持つ諸性質にほかならない

ことから、寄生虫が経験する「宿主の身体が18℃だということ」(というクオリア)は、対象(宿主)が持つ18℃であるという性質に他ならないから、宿主が18℃であると知っている者はみな、寄生虫にとっての事物の見え方をしっていることになる、というものである。
ここはどうにも分かりづらいので訳者解説を参照してみることにしてみます。(解説では、本書で暗黙的に踏襲されている議論の説明と、各章の要約に加えて、本書の問題点が二十五ページにわたり説明されている)

ドレツキによれば、他の存在者の心を知るとは、その存在者が世界をどのように表象しているかを知ることである。このことを知るには、経験が何を表象するかを知り、表彰されている性質がなにであるかを知ればよい。

(245)
なぜなら「クオリアとは、経験の対象が持つと表象される性質にほかならない」からである。

いままで見てきたような、表象主義テーゼによる肯定的な成果と、それへの批判に対する応答が本書ではされています。中にはあまり納得できない部分(特に双子フレッドの議論、つまり(思考ではなく)経験の外在主義)もありますが、全体的には非常に示唆的です。読みづらさがあるとすればドレツキが導入した概念への不慣れが原因だとも思ったので、解説とは別に、私が読んだ時に苦労した部分を中心に出来るだけ書いてみましたが、どうでしょうか。

過去記事:
「行動を説明する」フレッド・ドロツキ - ノートから(読書ブログ)
昔書いたものです。そろそろ読み直さねばならないかもしれません。