鉄の時代:クッツェー

「侵入者」においてナンシーは自らの心臓移植について語り、自己免疫の異常において、自己の境界がはっきりとしなくなる経験を語っている。僕がクッツェーの本作品を読んだのはそれよりも後だけれども、作品自体はそれより前、1990年に書かれている。本書はアパルトヘイト末期のアフリカの状況をよく伝えると共に、末期癌の老人の娘への手紙という形を通して限界における様々な境界のゆらぎを表現している。

病気において、身体と精神との間隔が意識される。

わたしを裏切ったこの身体の心配などして、なんになる?自分の手をみても、ひとつの器具にしか、一本の鉤の手にしか、なにかをつかむためのモノにしか見えない。この脚、この不恰好な醜い竹馬。なぜ、どこへ行くにもそれを運んでいかなければならないの?

(17ページ)
心身の距離が意識されているが、身体を捨て去るわけではなく、本作品には、痛みを感じる身体へのあわれみかいたわりがある。

例えば70ページ。警官がカレンの家で働く使用人の息子が乗っていた自転車を押し、自転車が倒される。乗っていた二人の少年、使用人の息子とその友人の二人の黒人は、重なり合って地面に投げ出される。友人は重症で、額から血が流れ出ている。

傷口から滝のように流れ出る血は、少年の両目に入り、髪の毛をぎらぎらと光らせ、舗道にしたたり、あたり一面を血の海に変えていた。血がこれほど黒く、これほどねっとりと、これほど重たいとは思わなかった。この少年はいったいどんな心臓をしているのか、こんなにどくどくと血を流し、さらに流し続けるなんて!

血は誰にも同じく流れている。それは人類に、それだけではなく多くの生物に、分有されたものだ。

なぜなら血はひとつだから――個別の存在としてわたしたちのなかに散在してはいても、本来、生命という単一の泉に属するものだから――借りているのであって、あたえられたものではない――共同で維持すべく、託されたものなのだ――……

(75)
読んでいるときに、ウィトゲンシュタインが提示した、他人の痛みを感じるとはどういうことか、という問いが浮かんだ。とはいえ、一般的なことをここで提示することはできない。なぜなら、この小説では、それぞれの痛みが、何度も何度も描かれているから。解説の表現。「暴力を受ける身体、あるいは暴力を受けた痕跡をしるす身体」が拡がっているのだった。

本作品ではいくつもの区別が、その境界において消え去っている。というか、区別は区別として残ったままで、区別が蹂躙される。例えば家に突然現れる浮浪者、ミスター・ファーカイル。彼は他者のように、家主の権利を侵犯し続けている。また自分の身体、というもっとも素朴な感覚も、意識が薄弱となる極限において、身体が他人にモノのように扱われること、そして身体の中に留まり続ける癌の細胞によって(「わたしの内部で大きくなった、わたしの卵。わたし、わたしのもの――書くと身震いすることばたち、でも真実だ」76ページ)蹂躙される。「プライベートな書類」(39ページ)である手紙(この作品)の私秘性も、もっとも恐ろしい侵入者によって失われる。
われわれがする区別のうちあるものは、序列化され、階層化され、価値の差異になる。しかしどれほど根源的な価値であっても、それは常に破壊されうる。
彼女はベキの身を案じて、向かったさきで、「容赦なき破壊の場面」を見る。それはたとえばテレビなどとは違い、目をそらすことができないものだ。

自分の車に乗り込み、ぴしゃりとドアを閉めて、この激怒と暴力が迫りくる世界を締め出してしまえたら、どんなにいいか。

「お願い、きいて。わたしは無関心ではないのよ、これに……この戦争に。そんなことは不可能よ。それを締め出しておけるほど、分厚い柵はないんだから」泣きたかった。でも、ここで、フローレンスのそばで、そんな権利が私にあるのか。「それはわたしの内部で生きていて、わたしはその内部で生きているのよ」

(上から114ページ、123ページ。また、14ページ、215ページも関連するかもしれない)


カレンはファーカイルに手紙を託す。彼は信頼できず、手紙は娘の元に届くかどうか分からない。そこにもやはりひとつの境界がある。「あんたのために小包は出してやるよ」男は約束する。約束が信頼の境界で揺らぐ。約束とは、時間という無を与えるものだ。契約を離れた純粋な約束は、経済に属さない。それは手紙がすくなくとも彼女の死後に届けられることが決まっているという一点で、約束に留まっているように思われる。

ファーカイルを信頼できないゆえに、わたしは彼を信頼しなければならない。……
……彼の許しが無いままに、わたしは慈愛なく与え、愛なく仕える。不毛な土壌に降り注ぐ雨よ。
もっと若いころなら、わたしはこの身体ごと彼にあたえたかもしれない。ひとはそういうことをするものだし、そうしてきた。たとえ、どれほど誤ったことであっても。わたしはそうはせずに、この生命を彼の手にゆだねる。これがわたしの生命、これらのことばが、このページの上を蟹のように動く指の軌跡が。

(156ページ)
手紙は娘に届くかどうか分からない。死者は契約に属さないからだ。

生前最後の依頼状に強制力はない。なぜなら死者は人ではないから。それが法律――あらゆる契約は失効する。

(39ページ)
手紙は誤配される可能性がある。これを思考のうちに組み入れた彼女は、死について語っている。

死は、残された唯一の真実。死は、それについて考えるのが耐えられないもの。

(33ページ)

話す時間があたえられるのなら、私たちの全てに例外だと主張する権利がある、それが真実よ。だれもが個別に裁かれるべきなの。

(95ページ)

あなたの生命はもうあなたとともにあるのではなく、あなたのものでもなく、その子とともにあるの。だからわたしたち、本当は死なない――ただわたしたちの生命が手渡されるだけで、わたしたちのなかにしばしあった生命が、そのあとに残されていく。わたしはただの抜け殻、見ての通り、子供が残していった抜け殻よ。

(90ページ)
本書における第二部までの彼女はこのように書いていた。しかし彼女は第三部で、目の前で犯された犯罪について、意見を求められるが、語る言葉を持たない。(117ページ)そこでは言葉と現実が一致しない。その回答を求められる猶予期間、彼女は立ち尽くすことしかできなかった。そこで見た光景の前後で、彼女は大きく変化するように思える。

人形?人形の生命?それが、わたしが生きてきたものなのか。……
……人形が人形を認識できるのか。人形が死を知る事が出来るのか。できはしない……
……人形は死なない。あらゆる追想に先立ち、驚愕して立ち尽くすその瞬間に、人形は永遠に存在する。ひとつの生命が奪われるとき、生命は彼らのものではなく、名ばかりのものとして彼らが残される場となる。

彼女は思い出を語る。彼女が母親から語られた物語を、彼女はかつて語っていた。(21ページ)彼女の物語が、彼女にもあった。それは生まれに属していて、誰もが持っていたけれども、取替え子のような経験によって失われたものだ。
つまり存在の特異性が奪われ、人形のような生を生きることになり、そうなっても誰も気がつかない。彼女は自らの生を終わらせようとする。(138ページ)なぜなら、死だけは固有のものだからだ。(「わたしの死をだれかと分かち合いたい渇望にあらがうこと。……死を自分のものとして抱擁すること、わたしだけのものとして」9ページ)しかしその境界上で、ファーカイルが見せはじめた彼女への気遣いが、彼女を思いとどまらせる。彼女は車の運転を彼に任せる。もしかすると、家主が交代したのかもしれない。車の中で、彼女は誕生への愛情を失ったことを語る。そして同時に、恐らく死へのロマンチズムも喪われてしまう。

ベッドに横たわって死ぬことが私の魂を救わないなら、炎の柱に包まれて二分で死ぬことが、なぜ救いとなるのか?

(169ページ)
人形はイデアに属している、と彼女は書いていた。救いの死と救わない死があるのだとすれば、それはどちらも人形の死に属しているのではないだろうか。死は仮面を被ってわれわれに現れ、呼びかける。(195ページ)

第四部で、彼女は彼女の死を死ぬ。血筋や思想における救いは無い。また、名誉や誕生の物語の正当性や共同体といったものが死を受け止めてくれるわけでもない。ファーカイルがいるだけだ。あらゆるものが喪われた後の、ベケット的な終焉が訪れるのだけれども、それでいて本作品の終章は非常に美しい。純化された、魂が描かれているようにも思える。この記事を書くにあたり本書に付箋を何枚も挟み、記事を進めるごとに一枚ずつ抜き去っていった。この方法のせいで順序が分かりづらく、読みづらくなってしまったかもしれない。ともあれ、その付箋ももうなくなった。あとは裸の本書が目の前におかれていて、これ以上書くことも無い。