暴力:スラヴォイ・ジジェク

暴力 6つの斜めからの省察

本書を読むうちに、何か居心地の悪さのようなものを感じていた。本書で扱われる暴力には、大まかに言って三種類、一つはわれわれが「真っ先に思い浮かべる」ものである「主観的暴力」(犯罪、テロ、市民による暴動、国家観の紛争、など)、続いて主観的暴力の零度である「正常」状態を支える「客観的暴力」(システム的暴力)、最後に、ベンヤミンの読み直しによってその概念に到達する「神的暴力」があるのだけれど、本書では主に前二者の暴力が分析されている。その過程で、ジジェクリベラリズム的な「寛容」がいかにやはり暴力的であるか、を指摘する。(73-75,179-182)私を居心地悪くしたものはそれだろう。他者への「寛容」という倫理が挑発されることで、われわれは問いを向けたくなる。では、それに替わる倫理とはなにか。本書でジジェクはどのような提案をしているのか。

本書では互いに関連した複数の主題が代わる代わる現れる。生政治はいかに傷つきやすい<他者>への尊敬、配慮をもつと同時に人間を「ホモ・サケル」に還元する操作を行うか。客観的暴力はいったいどのように作用しているか。他者への寛容というリベラル的な倫理と、それと対照的な「ハラスメントに対する強迫的な恐れ」がいかに絡み合っているか。この記事では最後の問いに話題を限定してみる。この問いは、第五章「イデオロギー的カテゴリーとしての寛容」以降で詳しく分析される。
寛容とは、政治的差異が所与であり克服不可能な「生活様式」の差異、文化的差異に自然化された後の倫理的態度である。リベラリズムにおいては、文化は私的なものとして生き残る。この立場において主体はその本質において普遍的とみなされる。この立場の代表的なものはローティの特異性の領域としての私的領域と連帯の空間としての公的領域の峻別だろう。ジジェクはそれにカントを対立させる。カントにとっては、(おそらくローティにとっての公的空間である)共同体的制度的秩序こそが私的なのであり、そのしばりの外側にある解放をもたらす普遍性の次元が、公的であるといわれる。(178)そして個人とこのカント的な普遍とは、特殊性を媒介せず直接関与する。次にカントが普遍性の名とともに現れるのは、スローターダイクの長い読解の後、ジジェクがその批判に転じる時である。スローターダイクルサンチマンの組織が近代の左翼のプロジェクトの源泉であったとし、それが現代において無力である以上、いまや個々人の承認願望の調整とリベラル的「行動規定」の確定すべきであると提唱した(226-230)のだが、ジジェクはその非難自体が「倫理的普遍性の<奇跡>」へのルサンチマンから発しているのではないか、としてカント(とサドのラカンによる読解(「精神分析の倫理」))を参照する。ラカンによれば、カントの言う倫理的普遍性、すなわち「感性的動因による」関心や動機に基づかない行為は「欲望そのもの」にしたがった行為である。

この後、本書はベンヤミンの神的暴力の検討を行い、それを神話的暴力と分けるのはそれが(罪人を罰したり正義を回復したりする)手段ではなく「世界の倫理の「関節がはずれていること」」の意味を欠いたしるしであり、またその神的性格を保証する大きな<他者>は存在せず、むしろその無力を引き受けた上でなされる決断である、と結論されるのだけれど、それを充分に説明するにはあまりに多くの要素を飛ばしすぎてしまった。