仏像学入門:宮治 昭

仏教美術の起源は、在俗の信者の信仰と関わる。彼らは釈迦に関わる聖なるもの、「チャイティヤ」を礼拝していた。彼らは(出家僧とは異なり)チャイティヤを礼拝することによって功徳をつもうと考えたのである。チャイティヤには三種、釈迦の遺骨である舎利・またそれを祀った仏塔、釈迦の使用した物、象徴的な図像表現がある。(7)仏塔が造立され、それを巡る玉垣や塔門に装飾が施されるようになるのが、仏教美術の興起である。装飾において、仏塔、聖樹、聖壇、法輪、三宝標などの象徴的図像表現が発展し、仏伝説話図において仏陀の存在の表現として組み入れられる。古代初期、一世紀初めころまでの仏教美術において、「仏伝説話図が相当に発展を見せているにもかかわらず、主人公たる釈迦はけっして人間像で表されることはなく」聖樹と聖壇の組み合わせといった象徴的図像によって存在が示されていた。(10)*1
仏陀の人間像である仏像はその初期においては釈迦の成道後、梵天をはじめとする神々が釈迦に人々のために説法するよう要請する、梵天勧請の場面が表されていた。この場面の意味は
「自己完結的な<悟り>ではなく、<救い>主としての仏陀の誕生を意味したといえよう。その場面に最初の仏像が表されたとすれば、単に<悟り>を開いた者、あるいは涅槃に入った者としてではなく、苦しむ人々に<救い>をもたらす者として、人々の熱い眼差しがそこに注がれたことであろう。実は、そのことこそが、仏陀を象徴表現ではなく、人間像として、「梵天勧請」の場面の中に表した理由ではなかろうか。人間像としての仏陀によって、初めて人々の熱い想いを託すことができるからである」。(23)
とある。仏像はクシャーン朝時代(一世紀中頃〜三世紀中頃)に急速な展開を遂げた。クシャーン朝における、神格化された帝王を肖像として表す伝統は、「死せる神」にかわって「生きる神」を欲するようになった仏教徒による釈迦の神格化と呼応し、仏像を大いに推進した。(28)クシャーナ朝下のガンダーラとマトゥラーでそれぞれ発達した様式の異なる仏像は、グプタ朝下、五世紀にいたって古典的な完成をみた。(36)この様式は、瞑想的で静かな、われわれが仏像に対してもつイメージの原型である。(一章)

以後本書では、様々な仏像の系譜が遡られる。例えば日本では弥勒菩薩の図像である半跏思惟像はガンダーラに起源をもつが、ガンダーラでは観音菩薩の姿として定着していた。(91)半跏思惟像は中国では釈迦菩薩または弥勒菩薩として造形され、韓国や日本で弥勒菩薩と特に結びつく。(49)四天王はインドの護方神信仰の仏教版というべきものであるが、北方の多聞天を除き、正統のバラモン教ヒンドゥー教の四方神とは異なり、むしろ土着的な民間信仰の神々に出自をもつ。(179)四天王信仰・造形は中央アジアから中国にわたって発展を遂げる。仏伝美術中の「託胎霊夢」の場面における摩耶夫人を護衛する四天王(183)や、ガンダーラで重視された「四天王奉鉢」の場面(186)につづき、「涅槃図」の場面で四天王は仏舎利を守護する重責をおう。(191)また仏教世界を守護するという役割も四天王はもち、これは仏教世界を「一寺院や一石窟として捉える」か一国土として捉えるかによって二つに大別される造像を生んだ。(193)後者が発展し鎮護国家の思想が生まれ、これは東大寺の建築にも影響を与えている。(197)

このように、時代を下り、土地を伝わるにつれて、図像上の違い、表現上の違いが生まれてくる。本書は豊富な作例に従い、様々な仏像の展開を解説している。仏教の時代、土地における広がりを感じさせる。

*1:「インド古代初期の仏伝美術における<仏陀非表現>の規制は、おそらく僧団の長老たちによってなされたものであろう」