戦争の悲しみ:パオ・ニン

我々はみな、当たり前のことだけれど、記憶を持つ。記憶は良いものもあれば、思い出したくも無い、おぞましいものもある。記憶は意図的にその中に没入する楽しみと、非意識的に登場する外傷的、暴力的な現前化がある。ベルクソンは、記憶が現在を常に構成している、と語ったが、実に潜勢的に記憶は常に現在なのであり、記憶から我々は解き放たれることはない。過去を乗り越えて、というのは簡単だけれども、真に過去を乗り越えられるとは誰にも信じられない、そのような素朴さはもはや誰ももっていないし、この小説においても同じだ。過去はそのまま現在である。少なくとも記憶においては。
ベトナム戦争 - Wikipedia
ベトナム戦争がどれほど多くの傷を(双方の)国民に負わせたか、我々はよく知っている、とそのつもりでいる。ただし本書に著された描写は、戦争という漠然としたイメージではなく、現実感をもってたち表れる。もちろんこれらのイメージが完全に戦争という表象全体を充足することはない。現実は余りに過剰だからだ。
本書では、戦後を語っている現在的な流れが、何度も何度も過去に、戦中に遡行してゆく。現在の光景、あるいは過去の光景に対する連想が働いて、フラッシュバック、もしくは神経症のように過去が現在化し、それが何度も繰り返される。我々読者は、戦争は少なくとも話者の中では終わっておらず、いや終わったのかもしれないがそのせいで話者たるキエンは戦争によって完全に損なわれてしまった、と感じる。この悲しみは無数の惑星的描写をめぐりつつ、キエンとフォンに刻まれた戦争の傷跡に焦点化される。キエンの場合はなんとしても小説を書かねばならない、過去に戻らなければならないという切迫として、フォンの場合はわれわれが後から意味を知ることになる戦後の破綻という契機として。
戦争が終わって十年経ち、小説を書こうという試みは、記憶を書くという試みに帰着し、それは内面のみへと向かってゆく。小説の所々に挟まる小説や文体に対する批評的な評価は、小説の価値に対する疑問として、つまり世間の目として、常に不安のような形で語りかける反作用となる。常に鳴り響くそれは、われわれの持つ規範イメージであり、超自我でもあるが、それはこの小説をかろうじで小説たらしめている作為でもある。

人間が中間的存在であるから、キエンは常に二つの異なる傾向に引き裂かれている。もちろん、もはや人間を本性において語ることはできない。戦場の兵士が、日常に戻るのに大きな苦労を要するのと、キエンが残酷さと罪悪感の間で悩むのは、実にパラレルになっている。これほど壮絶ではないが、われわれもやはり倫理と現実の間で悩む。それが人間なのだ、というのはどこか欺瞞であり、やはりその葛藤の間になにか損なわれるものがあるのではないか。

小説の内容というよりも、私の心情吐露のようになってしまった。強い共感があったからだけれども。
また、本小説においては、個々人の特異性のなかで共有可能なものとして、戦争の悲しみが言われる。我々の本性のようなもので、それは良心かもしれない。我々は互いに相近いからこそ、小説を読み共感することができる。二人の人物がいるように思える。一人は過去に韜晦し、もう一人は小説を世に出すことの意味を信じている。私はというと、この二人の中で決めかねている。


「暗夜」についてはこちらを参照。
暗夜:残雪 - ノートから(読書ブログ)