黄金探索者:ル・クレジオ


昔良く通った通りなどを、久しぶりに立ち寄ることなどがあると、道路が広くなったり随分と町並みが変わったりした中で、それでも変わらず佇んでいるかつて印象深かった建物などを発見して、懐かしくなるようなことがある。ル・クレジオがこの小説で描く時代は十九世紀末から二十世紀初頭にかけての三十年間であり、そのあいだにアレクシが失ったものと探したものを描いている。


小説内において重要な役割をはたし、そしてその地理的特性として唯一表れてくるのは、痕跡を残存させる強度である。零度として海洋表面がある。最高度として天空の星座や、マナナヴァの森がある。その中間に、イギリス海岸の数々のマーク、島それ自体、岩に鑿で刻まれた疵、家や小屋などの建築物、ゼータ号、人間が位置している。

残存と非残存のあいだの差異は、せいぜい半アナログであるにすぎない。いいかえれば、損なわれたか損なわれていないか、それは回復可能か不可能かの違いこそがもっとも重要なのであり、その違いこそが痕跡のもつ地理的な耐久性を計る目盛りである。小説内では破壊そのものがくっきりとした輪郭をもって表れる。つまりペストの流行、フェルディナン伯父の悪意、ハリケーン、そして戦争。これらが小説の語り手であるアレクシとその島を襲い、それはつねに何らかの破壊を伴う。二度のハリケーンは父とアレクシ自身の夢の試み、アレクシが小説内で行った唯一の肯定的な試み、を破壊してしまう。(もちろん建物や船もそれには耐えられない)家族は家を失い、フォレスト・サイドへ引っ越すことになり、アレクシが海賊の黄金を探索するために長い間蓄積してきた目印は失われる。戦争やペストでは多くの人が死ぬ。フェルディナン伯父はサトウキビ畑と話者家族への敵対心のために少年時代の思い出の土地を等質的な空間に変えてしまう。


小説の終わりほどで、アレクシは破壊を免れたマナナヴァの森に戻る。そこは人が近づかない死者の森である。直接的には黄金探索が不可能になったからだけれども、そこで語り手は黄金探索=戦争に行くこと=フェルディナン伯父的なものをあきらめる。それは外側から見れば老荘的な退隠、危険な撤退にもみえる。しかしそれは海賊と重ねあわされ、自由と、またウーマと一致する。海賊もウーマたち山の民も、財宝を海に投げ捨てるという点で最終的に一致していたことがわれわれに知らされる。そしてアレクシもそれについて行く。最後に彼は海に向かうが、それはなにかしらの記憶を見つける=再認するためではなく、むしろ海が記憶をまったくとどめない土地であり、そこは究極的に自由であるからだ。


本書はル・クレジオ自身の先祖を題材として書いた小説三部作の一部にあたる。二作目は未邦訳のようだが、三作目は邦訳が出ている。「はじまりの時」(上下)。上巻が絶版らしく、図書館などで探すしかないらしい。

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