音楽史の基礎概念:カール・ダールハウス

音楽史の基礎概念
音楽史の基礎概念
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カール ダールハウス
白水
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著者はカール・ダールハウス碩学であられたようで、クラシックについての著書も多いらしい。以前、グールドの「西洋音楽史」を読もうとしたことがあったが、さすがに準備不足だったようで、結局読めなかった。本書は偶然見かけ、タイトルに惹かれて読んでみたのだったけれど、内容は、音楽史の理論を批判的に考察するものとなっている。読んだことのある人はT.イーグルトンの「文学とは何か」あたりを思い出して見てほしい。具体的にどこが似ているなどという説明はしづらいが、読みながら何度も思い出していた。本書は訳者解説が書くように中々難解で読みづらく、またドイツ哲学の知識(ウェーバーマルクス(主義)、ガダマー、アドルノ、ヤウス(受容美学)、ハーバーマス・・・)も前提としている。(訳注が豊富だが)代わりに、おそらく、音楽の理論(楽典)はそれほど知らなくても読めるのではないか。わたしは、「西洋音楽史」あたりを参照しつつ・・・。
上にあげたような理由で勧めはしないけれども、二百ページほどにもかかわらず、内容は非常に高度で、結果、重厚でもある。本書のむずかしさは、音楽史学を一望し、かつ批判するという構造に求められる。本書の音楽史-史は、西洋音楽史にみられるような、教会音楽からルネサンス期の不協和音の発見、ロマン派の人間中心主義から構造批評(または受容美学などの近代批評)にいたる、という流れを基礎としている。本書のすべてについてみていくことは能力的にも、また効用的にも避けたいので、一章だけやや詳しくみることにして、その後は各章の概略を記述することとしたい。興味を持たれた方がいれば、図書館か本屋で手に取っていただければいいと思う。批評史の根本的反省を本書は行っている。


なぜこの本が書かれたのか。ダールハウスは冒頭で音楽史の効用を述べている。(p.12。一部省略)

音楽史の(…)主たる対象は、現代の音楽文化に生きつづける重要な音楽作品である。したがって作品の美的現在性が(…)歴史的過去の記述に介入してくる。その限りにおいて作品の成立史や作用史の説明は、一方でその作品が生まれたときの前提条件を解明し、他方では現在の聞き手とその作品との関係がもつ意味を明らかにする、という機能を果たすのである。(ある作品の作用史は、現在におけるその作品受容の前史にほかならない。)作品にせよその作品に対する我々の関係にせよ、ある物事の基盤をなす歴史的条件を知ったとき、われわれは物事をいっそう正確に理解することができる。

ダールハウス音楽史そのものを問おうとしている。歴史とは、無数の素材を取捨選択して、序列付けして、因果関係を見出し、歴史の中に関連付ける作業による構築物なのだが、そこがとりもなおさず、難点になりうる。途方もない試みに見えるのだが、著者は既存の音楽史の問題点をひとつひとつ指摘してゆく。しかもそれ自体が、「音楽史の基礎」にもなっており、ある種の歴史哲学にも見えてくる。

次いで問題が提示されており、これは「音楽史記述の諸問題」と小題がついており、後に行われる個別の批判ではなく、全体を概論して問題を論じているように思われる。例えば、
作品の概念。音楽における作品とは何か。それは楽譜なのか、演奏する行為なのか。それとも作曲家の構想と現実化としての演奏、そして形式を感じとる聴き手の関係=出来事なのか。著者はこの問題(作品概念が解体されること)を疑問視し、また演奏により現前化する関係を作品とみなすことにまっとうな批判を加えつつも、可能性じたいは排除しない。
偉大さ。例えば、歴史的には偉大とされるが、それは後の時代からの(再)解釈で範例にまで格上げされたためである、という曲がある。(十九世紀におけるバッハの「再発見」が挙げられている)音楽作品の偉大さは、作品史、技法史、社会史、機能史の何を選ぶかによって異なる。要するに、方法によって異なるのだが、それを選択するメタ理論を構築するのは端的に難しく、不可能に思える。(諸々の理論の調停、その相対主義の打開には、よく実用主義が用いられるが、著者もそうなのではないかとおもわれる)
歴史の連続性。歴史は歴史家によって再構築されたものであるが、それは「歴史家が予め採用した理念」に基づく。これ以外に、歴史を把握する方法は内容に思われる。この解決策として、原理を「相対的にのみ妥当する」ものとかんがえて、経験的事実に検証させるという方法が提案されている。
作品の選択も、どの方法を選ぶかによって異なってくる、といわれる。新しく、独創的な作品に歴史的発達をみる技法史的立場と、古いものも新しいものも同様に役割を果たした、とする文化史の立場とでは、取り上げる作品も異なる。
続いて今挙げたような諸問題が、アードラーの提唱した「様式史」の失敗をもたらした、として、様式史の問題が叙述される。ある様式の特徴を定める内部連関と、様式相互間の差異は、実の所末期古典派とロマン派初期の近親性のように、無色の歴史的出来事から様式の連続性を断絶させる論拠が存在しないというわけで、失敗したというものである。詳しくはp.24〜29。

ここまでが一章の内容である。長い記述なのは、本書の文脈に一度接地するやいなや、簡単な要約を許さないような、次々と論が進められてゆくその速度からである。論の密度については分かっていただけたと信じる。ここからは、要約的に書いてゆく。
二章から四章では、音楽史の様々な方法、音楽史においてどのように素材たる出来事を選択するか、音楽史とは何の歴史なのか(音楽史の主体とは何か)、がそれぞれ詳述され、五章では音楽において歴史意識、伝統、歴史主義がどのような役割を果たすかが論じられる。
歴史意識とは制度化、客観化された記憶という意味で伝統の一形態であり、また逆に統御された異化の作用、客観化することにより、伝統を批判する(新しいものが生まれる条件をなす)ものでもある。また歴史主義とは、ある時代の歴史性が、「音楽作品の本質と実体を形成するという信念」である、とされ、伝統または伝統主義との差異、保守主義との差異が語られる。こういった部分は実に音楽史の基礎をなしているし、見た目の難解さも、理論の凝縮の結果であるように思われる。

第六章では歴史的解釈学の概念である「理解」と、「一般的な私」、などが解説され、またヴェーバーの内部からの理解/外部からの理解の差異(意図からはじめる解釈/機能的な解釈の差異)と、そこから生じる歴史の差異、対立が説明される。七章では「事実判断」/「価値判断」、「価値評価」/「価値関係」という二つの対が導入され、価値評価が価値関係の構成に影響すること、また価値評価が伝統によって価値関係に結びつく、ある意味で根拠として持つことなどが示される。八章から十章にかけてはそれぞれ個別の理論について問題点を洗い出す。マルクス主義構造主義、受容美学。第九章では、構造史と出来事史が、出来事の現勢化の構造によって補完しあうこと、構造(音楽)史と社会史とを調停する可能性、構造の同時代性の切片に非同時代性が区別されるという問題、などが論じられた後、十九世紀の音楽文化を構造史的に記述する出発点、部分要素を記述する。十章では、受容史が論じられ、受容という概念を精緻化し、受容史が可能であるなら何が可能にするのか、ということを論じる。


こういったとても錯綜した論の中で、構造史的な歴史叙述にダールハウスはもっとも親縁的だと思われるし、それは本書の音楽史学の歴史的な叙述部分にもみられないこともない。ともあれ、本書の内容に一本の筋を見つけるのは僕には不可能に思われる、せいぜいできたとして、各章の文脈だろう。それすら荷が重い。ともあれ、この程度で記事を終わることにする。ページを順繰りしたかのような、ただの羅列になってしまい、お世辞にもよく書けたと自賛するわけには行かないが、本書のある種の力強さが少しでも伝われば、良いと思います。繰り返しになりますが、本書については、読む事をとりたてては勧めません。感性ではなくある情熱、徹底さ、文体において、人を選ぶ本だと思います。