イメージの奥底で:ジャン=リュック・ナンシー

本書はナンシーのイメージ論を集成したものとなっているらしい。こういった本を読んだことは少なかったので語彙の面で(つまりイメージの面で)苦労したが、とりあえずある程度の脈絡はつかめたと思う。ここでは、「禁じられた表象」だけを読む。

「禁じられた表象」では、ナチスの行った「殲滅」、特にアウシュヴィッツ収容所がなぜ表象を拒むように見えるのか、殲滅を表象することはできない、またはアウシュヴィッツの後にはいかなる詩もありえない、と詠まれたのは何故か、が考えられている。
ナンシーはまず、西洋において「イメージ」は、一神教的なものとギリシャ・ローマ的なもの、その二つの論理によって抑圧されてきたと考える。一神教的な、ナンシーがいう意味不在の論理では、自らを退隠させることによって神的な内包をえた神が、「偶像崇拝の禁止」を命令する。ここで「偶像」とは、「それ自体が神的な現前であるようなイメージ」のこと。ナンシーがいうのは(p.76)、

偶像が断罪されているのは、それが複製あるいは模倣的イメージだからという動機によるのではなく、むしろ充実した、濃密な現前であり、一つの内在性の現前、あるいは一つの内在性における現前だからという動機によるのである。

という偶像(したがって禁止されるもの)の特徴と、

イスラエルの神は形を持たない以上、イメージも持たないからである。イスラエルの神は、人間と類似している以外、何者とも類似していないが、その人間との類似は、しかしながら形相的なものでも質料的なものでもない(それゆえ人間は、似姿(イメージ)なきものの似姿としてある)。

という一神教的な存在論である。
つまり、それ自身で濃密な現前が禁止されている。この偶像の特徴が後のナチスのものであると、ナンシーの展開を先取りすると、いうことができる。

また、ギリシャ的な要請とは、それはイデアとロゴスの秩序によって構成される、模倣もしくは欠損としてのイメージである。この二つの論理が、イメージをどのようなものにするか、(79page)

一方では意味不在(absense)が、完結した意味として与えられる現前を断罪し、もう一方ではイデアが、自らの反映でしかない感覚的なイメージ、高次のイメージの下落した反映を貶める。

これがイメージの抑圧であるが、また、その論理自身がそれを否定しゆく運動もみられるという。

ところがこうもいえる、すなわち、一方で意味不在がせかいそのもののなかでみずからの退隠を開示し、もう一方で感覚的なイメージがイデアを指し示す、あるいは指標化する。それに続くのは二重の仕方で二重の論理、その両方の価値が交換され、汚染しあい、対立しあう論理だ。

歴史はこの運動の流れとして見ることができる、とナンシーはいうだろう。

イメージを作りながらも、つまりイメージの一種であるのだが、単に感覚的なものの現前でもなく、また偶像製作でもないような方法で、「一つの現前へと要約できないもの(不在)の現前化」または「叡智的な実在を、感性的な実在の形式的媒介によって現前させること」が、ルネサンス以来、「芸術」と呼ばれるものにおける、「表象」である、とナンシーはいう。(p.80)
ところでこの表象が不可能なのは、収容所とは、表象を押しつぶす表象に他ならないからである、と続けられ、そういった「表象の表象」を、「超表象」と名づける。するとこれはやはりニーチェの「神の死」とかと接近してくることになるだろう。収容所を論じた論は多くあるけれども、不勉強もあってそれらに立ち入る余裕はないので、ここからも本書のみに範囲を限定することをお許しいただきたい。

超表象と一神教的な意味不在とを分けるのは、それ自体が現前するかしないかである。つまり、意味不在は決して現前しない。それは退隠することによって神的なのであるから、現前はしない。かえって超表象は現前によって、みずからの秩序を実現する。ユダヤ人を代理の代理と位置づけ、他者として超表象を脅かすものと位置づけ、自らを無化するものを無化するという論理を用いるとき、それが自らにおいては世界観の現前化として表象される。そこにおいて死は、有限な実存の死ではない。物語に立ち入らず、もはや表象ではない。それは「神の死」の後の死である。102page。

ニーチェが『神の死』と名指したものが、まさしく(再)現前化の地平における死の終わりであり、悲劇的な死あるいは救済的な死の終わりであり、それがある別の(不)可死性の要請の始まりであることも、よくお分かりの通りである。

そしてそのような死が、表象を奪われた死が、殲滅といわれることになる。こういった表象の処刑が収容所でまさに行われていた、とナンシーは言う。つまり、(p.108)

ある強迫観念的なイメージがある。そして、そのイメージとともに、収容所について何も表象できはしないという知もある。なぜなら収容所とは表象の処刑だったからである。ここに言う遂行にして処刑(エグゼキュシオン)とは、語の二重の意味におけるそれであり、つまりは余すところなく実行すること(自己で充満した現前化)と、(…)
(従来は)<余すところ>が、表象が与えられるための可能性をなしていたが、その<余すところ>がない状態でということである。

最後に、この表象の禁止が、先ほど書いたような表象の歴史の中に位置づけられ、分析の対象とされる方法の示唆がされる。


本書の全体は、これに留まらず思考を広げてゆくナンシーの軌跡のようにもなっていて、つまり問題系はここにはとどまらないし、「仮面の構想力」についても書こうと思っていたのだけれども、単純な力不足で諦めざるを得なかった。この記事にかぎっても、さぞ読みにくい文章だろう。申し訳ない。訳者による詳しい解題が巻末にあるので、それを先にじっくり読んでおいたほうがいい。