伝習録:王陽明、吉田公平(編)

伝習録―「陽明学」の真髄 (タチバナ教養文庫)
吉田 公平
たちばな出版
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むかし精神の安息を得るために、伝習録をよんだことがあった。最近になって「陸象山と王陽明」を読み、色々と詳しいところを知ったので、素人の見解だけれども、少しまとめてみたくなったので、書いてみることにする。
朱子学では、「物理」と「事理」が区別されており、事理は主体と客体の間の関係の理、「天理を窮め、人倫を明らかにし、聖言を講め、世事に通暁する(陸象山と王陽明p.181)」ことであり、物理とは眼前の物に内在する理のことであるらしい。王陽明が探究し、挫折したのは、この物理の探究であり、これは朱子学では事理の後に探究されるものとされていた。つまり陽明の挫折は、朱子学への不理解ということになる。同書にはこれに続いて、関係である事理と物に内在する物理の理解の間に本当に朱子学のいうような因果的機能があるのか、という疑義が為されるのだが、ともあれ、この挫折が陽明を朱子学とは違った道に進ませることになる。ある種、この挫折はそれが真剣であるだけ、朱子学自体の弱点を突いているようにも思える。
格物致知朱子の知行でいうと、知にあたる。朱子孟子性善説を受け継いでいて、我々の本性、性は(天)理に一致する、つまり性即理をとなえたのだけれども、現実においてはそれは気に左右される。つまりそこなわれる。そのため、修己の論が必要となる。これを朱子は「大学」から

大学の道は、明徳を明らかにするに在り、民を親しましむるに在り、至善に止まるに在り

つまり三綱領、「明明徳」「新民」「止至善」と

古の明徳を天下に明らかにせんと欲するものは先ずその国を治む。その国を治めんと欲する者は先ずその家を斉う。その家を斉えんと欲するものは先ずその身を修む。(…)

という風に続く八条目「格物」「致知」「誠意」「正心」「修身」「斉家」「治国」「平天下」として、その段階的実践として体系化している。
そのうち格物・致知は最初であり、これは知の段階に属している。誠意からは「得所止」といわれるように、行の段階である。誠意から修身がはじまるのである。この知から行への移行は、飛躍があり、「転関するところ」でもあるのだが、これは格物致知を極めることによって自然に得られる転換である。誠意においても人間は気質により欠漏し、背理する可能性が常にあるので、そこに慎ましさが必要となる。われわれの現実の意識においては正しさを判定する基準がなく、気質と性(即理)の混合としてしか倫理の把握はできない。そのため、実質、誠意においてわれわれができることは何もないことになる。理に沿っているかいないかは、格物致知の努力がどれほど達せられたかで決まることになる。(「陸象山と王陽明」p.265-280)
こういった大枠を持つ朱子の実践論は、国家を治めるべき徳のある人間になることこそ、道理にかなう事である、という価値観である。つまり老荘や、禅仏教などは個人の内面に沈滞し国家への眼差しがない為、批判される。中国の思想史を知らないため、あまり立ち入ったことは言えないが、ともあれ朱子はここで禅仏教を明確に非難している。これが王陽明となると、それもまた変わってくる。

良知心学は、固定した規範を押し付けない。それは読書を重視しないことや、また良知がそれぞれ発現において差異をもち、それが各々正しいことを直接に語ったものとしては「大用、良知の同じきにいづれば、便ち各々説を為すも何ぞ害あらん」(「伝習録」93)「功夫愈愈久しければ、愈愈同じからざるを覚ゆ」(同10)もっとも有名なものとして「満街の人はみな聖人」がある。
良知は本質的に、全存在に備わっているけれども、それはそのまま「至善」であり、これからの逸脱が悪と見なされるものである。逆に言えば、善は悪のなさ=本性、正しさに属している。だから、道徳とはそのまま良知を発揮することとなる。


良知の発現であることによってわれわれはすでに救われている。これは性善説の徹底であり、安心の源でもある。伝習録の解説から引用すると、

朱子が言う性即理としての)この本性は、気質を主宰する心に付与されているが故に、気質を媒介して「気質の性」として発現する。逆に言うと、心は気質に制約されて本来の善性をつねに全面的に発現することはできない。つまり心は背理の可能性に満ちているのである。(…)
しかしこの(現実態と本来態との間の)中間者はついに中間者でしかありえないがために、つねに不安につきまとわれることになる。

という朱子学的な態度とは大きく異なることになる。
陽明において先にあげた八条目は段階を踏まず、渾然としている。だからきっちりと分たれた差異はないのだろうが、そのなかで陽明が重視するのは、心の已発の工夫であるところの誠意だとされる。これが別の表現では、格物致知、主客の関係を格(ただ)しくすること、といわれ、また現象に追随するに止まらない様、未発の工夫である、正心が説かれる。これを渾一のままに行う主体が良知であり、至良知とは良知が良知に至るようにすること、である。つまり自己完結的なプロセスがある。
良知の発現は、良知の自己観察でもあり、それが体認ともよばれ、工夫の対象になる。それは良知の発現の障碍を取り除くことであり、良知がその刹那刹那に自己を実現することだとされる。体認の所産を固定したものとして認めてはならない、ここは実に禅仏教と似ている。(正法眼蔵など)
また、本来完全であり、それが阻害されて現実態となるのだから、そこで重要なのは書物を読んで知識を深めることではない。それではかえって阻害を増やすことになりかねない。そうではなくて、志を立てることが重要になる。簡潔に言うと、自らが欠如態であるという自覚だろう。しかしこの自覚の底には本来救われているという良知の自覚がある。また、良知の発現は決して手の届かないところではない。ただ安住を許さず、常に更新してゆかねばならない見解であることは確かだろう。


何冊かの本において大体僕の理解したところをかいてみた。最後に本書についてひとつ。収録されているのは「伝習録」下巻だけだけれども、まず入門は下巻から、ともいうし、まずはこれを薦める。解説も、訳注も現代語訳もよい。中公から全文訳がでているけれども、これは後からでもよいだろう。

伝習録 (中公クラシックス)
王 陽明
中央公論新社
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日本における陽明学
陸象山と王陽明