ならず者たち:ジャック・デリダ

車輪の比喩、円環の比喩から、デリダは始める。俎上に上げようとしているのは、強者の理性がいつでも正しいことになる、という一文である。力と正義が結びつくこの場所に、主権の歴史が考えられる。
車輪は二重の問いによってわれわれを拷問にかけるという。そして車輪と民主主義の類似が語られる。いわく、それは自己言及としての自己性であり、また代わる代わる代表が交代することによる、代表制自体の回帰=自己性である。この自己性において、力、権力がすでに働いている。(そして同時に民主制の危機も自己免疫性という言葉で既に見られる(p.74))その内実が本書を通じて解明されてゆく。
民主制には、善と悪の両面がある。悪の面はといえば、なんらかの放縦(欲しいままにすること)とともに語られてきたし、良い面には、自由がある。この自由である、と語るときの、ある種の留保をデリダは見て取る。つまり、それは伝聞の形でしか提示されないのだ。そして民主政体の複数性、つまり○○民主主義の無数に続く系列に注意を向けさせたうえで、民主制そのものは表象されない、我有化されないことが示唆される。それは常に民主的な…という「代行表象」なのだ。(p.70)デリダは、このような民主制の理念の特徴は、本質的であると考え、その上で自らの「来るべき民主主義」を位置づけようとする。

ナンシーの「自由の経験」に注釈を加えつつ、計量不可能なものに到達するためには計量可能なもの(自己性)を通過するしかない、とコメントしたあとで、民主制の主体、権能をどこまで広げるか、それが無尺度になる、という困難を指摘し、それはしかし引き受けねばならないものであると、続けられる。この無尺度を前にした決断は、後期のデリダにおいては類例に暇がないけれども、民主制の問いにおいてもやはり同様に登場するものである。ともあれここで、自由の無尺度、つまり「自由はそれ自体と等しくない」ということと、また自由が無で計られる(無-尺度)ことから、自由は平等と等しい、という二つの命題が注目される。
続いてデリダはナンシーの兄弟愛概念に不安を表する。それは「友愛のポリティックス」において主題にされた兄弟愛批判と焦点は同じだが、簡単に言えばそこにデリダは父系性を見ている。それは誕生による市民権(126page)を連想させる。

「ならず者支配(ならず者国家)」と「民衆支配(民主国家)」との類縁を示唆し、ベンヤミンの引用がされる。138ページ。

ならず者はまた、ベンヤミンが『暴力批判論』で、彼らが魅惑するのは、国家に、すなわち法を代表しつつ実際には暴力の独占を保持し確保しているという審級に挑戦するからであるとわれわれに説く、あの「大犯罪者たち」の一人でもありうる。したがって、「大犯罪者」のならず者は、対抗的主権の蜂起のうちで、主権国家の高みにおのれを高めるのである。独占と覇権の立場にある合法的な国家、自称正統的な国家の主権と競合するべく、彼は対抗的国家となるのである。

要するに、法の根底には暴力があるのだけれども(例えば「法の力」「暴力批判論」)、ならず者と力の差異によって、国家主権が考えうるのであれば、国家はみなならず者国家であることになる。そしてより強い国家は、よりならず者な国家ということになるだろう。そこにも自己免疫的な構造が潜んでいる。それは主権の一と主権者多の対立にも因果的に還元できる。「ならず者国家、より多く/もはやなく」ではこの問題が詳述される。順序を保存したいので、これは少し後に回す。

主権性が「一」であることと関連させられてきた、そしてそれ故にルソーは民主制を存在し得ないとした、ということが語られ、デリダの「来るべき民主主義」はどのようなものになるのか、それは来るべき「一」なのか、と注意が向けられる。つまり、来るべき民主主義について詳論する時が訪れた、ということ。(最後の/最悪のならず者国家
まず、カント的統制的理念との差異を明確にする。いわく、統制的理念は<可能的なもの>であるのに対して可能的ではない/決定不可能性を経由する故に、それは予め決定されているものではない/世界はカントにおいては統制的理念に留まるが、デリダにおいてそれは「約束の構造」に、(つまり未来の無を含んだ現在という構造)従うために、それは常に切迫しており、緊急を要する。
続いて肯定的な五つの論点が素描される。(p.172)連続的に叙述する。

1「来るべき民主主義」という表現は、戦闘的で終わりなき政治批判を、たしかに翻訳しあるいは要求する

それは現前しない、これが「来るべき民主主義」であるといえる様なものは現前しないが、しかしそれは「あの自己免疫性の定式を迎接する唯一の体制」を考慮するが故に、唯一普遍化可能である。

「来るべき」という言葉は、未来の彼方で、到来すること、そして到来する者をも名指す。

もちろんこれは歓待と結びつき、また人権宣言や国際刑事裁判所の「発明」も名指すことができる。人権宣言の肯定的価値についてデリダはこう語る

大抵の場合失敗に終わるが、国民国家の主権に制限を課すことが試みられるのは、世界人権宣言に民主的な参照がなされることによってである。(…)
人権は主権者としての人間を措定し前提する。人権宣言は別の主権を宣言するのであり、ゆえに、それは主権一般の自己免疫性を開示するのである。

またそれは民主制とはまったく無関係のものであるわけでもない。民主制なくして脱構築はなく、脱構築なくして民主制はない、と「友愛のポリティックス」にかかれた事が引用される。つまり、「来るべき民主主義」は現在の民主主義の中に探されなければならない。

民主主義の困難。主権に意味が付与されたとき、それは既に正義の例外性、決断性を損なっている。はじめに車輪の比喩で語られた、自己性が誕生する瞬間もおそらくここだろう。(とすると逆に、「来るべき民主主義」は意味を持たない)強者の理由、それがいつでも正しいことになる、という冒頭に掲げられた言葉が反復され、強者の理性が正しさを求める理由が明らかになる。つまり主権は無言であり(分節化されず)意味を持たず、それゆえに一であり、しかし全ての国家はつねに、すでに意味付与されており、それゆえに強者の理性、ならず者国家だけがあることになる。

ハイデッガーにおける神を待つこと、などと結びつけられたのち、本書の元となった講演は締めくくられる。
併せて短い論文が収録されている。それは理性の危機(フッサールが冒頭にあらわれている)を救うための素描というべきものだ。ただ、これをこの記事の内容に結びつけるのは、可能かもしれないが見通しがつかないので、本書の構成を無視しつつ、ここで記事を終えることにする。本書はデリダの民主主義論を確かに非常によく開示していると思われるのだけれども、どうだっただろうか。本書を読む気になっていただければ幸いに思う。また、amazonに英訳があったので載せておく。

関連記事
『友愛のポリティックス』ジャック・デリダ - ノートから(読書ブログ)
以前に書いたもの。2009年の記事なので色々と粗や不明瞭な部分があるが、参考になればうれしい。
『自由の経験』・・・ジャン=リュック・ナンシー - ノートから(読書ブログ)
デリダが本書の中で注釈しつつ読んでいる。ナンシーについては未だに分からないことが多い。先日イメージの奥底で:ジャン=リュック・ナンシー - ノートから(読書ブログ)を書いたときにも、やはり難しかった。翻訳は多いけれども、長年にわたる仕事を包括的な視野に納めた解説書は今のところ、ないのではないか。