暗夜:残雪

彼女については本書で始めて知ったのだけれども、彼女の文体には特徴があり、それを月報で池澤夏樹氏は「この世界には遠景というものがない」と表現している。訳者の近藤直子女史も解説で、「残雪の謎」という風にこの不思議さを概念化した上で、こう書いている。(508page)

特定されない地点や時点、因果関係の説明の不在、理由目的の不在、自制の不在等等……。しかし、その後残雪の小説を読み続けるうちに、これらの語りの特徴が、そこで書き落としたただひとつの言葉に要約できることに気づいた。それは「観察」である。残雪の小説はすべて、一種の観察記録なのである。

ここにあるのは主人公「わたし」の内面の単なる観察記録である。

話者を観察すること、すなわち、客観的な説明を排することが、残雪の文体を構成している、と続けられる。つまり、この小説群(七つの短篇)には筋道を語ることは意味を成さない、ということになるだろう。私にできそうなのは、せいぜい愚直に読んでゆくことくらいのように思われる。なので、表題にもなった「暗夜」を呼んでみることにする。上手くゆくかどうかはわからないが、失敗したとしても、なぜ失敗したか位は益するものと思われる。だいいち、それ以外に方法が思いつかないのだ。



「斉四爺」が「ぼく」を「猿山」に連れて行ってくれるという。もちろん、「猿山」がなんのことかは我々にはわからない。
「斉四爺」はその直前の短編で伝説のなかに存在する「世外の桃源」を知るらしい「萕四爺」(カタカナの範囲では同音)を明らかに連想させる。「萕四爺」は「世外の桃源」の語り部だけれども、その仔細は「思い出すに堪えない」ので忘れてしまっている。世外の桃源へ向かう道は、山の洞窟、または小道だけれども、これは「痕」冒頭の山ラッキョウを取りに行く険しく狭い山の小道のようだし、その山は先取りして言えばぼくの父が猿山に変えようとした裏山を連想させるし…。こういう風に考えてみると、本書に収められた短篇群は、どれも似通った構造を、要するに民話的な異界への往還を描いているようにも思えてくる。もちろん、こんなこと、一読すれば誰もが感ずることだろうけど…。
先を続けよう。夜更け過ぎに出発したので、暗夜を行くことになった。道には、昼間は細い山の小道しか通ることの無い一輪車が行き交っている。斉四爺は一輪車を押す彼らのことを亡霊だというが、本当かどうかは分からない。斉四爺は猿山に行ったことが一度だけあり、その情況は「思い出すに堪えない」らしい。道の向こう側から、「永植」の声がしたが、斉四爺は行くなという。大志が無く、先にも進むことも帰ることもできないからだ。斉四爺の泊まった家の中で、発破の音が響き、もちろんここでは本書の冒頭で「大狗」が爆竹を鳴らしているのが思い出される。


こうして読んでいってみると、やはり何かわれわれが感じている理法とは異なる理法が、著者の中で通奏低音のように響いているようにも思えてくるのだけれども、それを理解することはできないようでも、またある。
「痕」においてその光景は、こういってよければ、プレモダン的な習慣が、モダン・現代的な、いまだはっきりとは定義されていないように思える、現代社会の過剰のようなものに変化したようにも、または単純に別種の慣習に交代したようにも思われるものだった。ある辞書で著者の残月氏のことを調べたところ、その小説の「分裂病的光景」という言葉が飛び込んできて驚いたのだけれども、分裂病を別種の述語平面(「西田哲学の脱構築」を参照。分裂病は西田の言う述語面が突如別種のものに変化することによって常識的世界からの遊離が生ずる、云々)と考えればこのような別種の理法が整除された状態で並べられている、というのは、実に我々を混乱させるものに思われる。
この記事を書いていて気づいたのは、この小説はある種の危険さを秘めているということであり、それは例えば筒井康隆「虚航船団」を読んだ時の感覚にも似ているということでもあった。筒井氏の小説のような一目に分かる無茶苦茶さは無いけれども、読んでゆくうちに徐々にわからなくなっていくこの感覚は、不思議さとこの記事の冒頭で表現しただけでは済まないほどの過剰さを指し示しているように思える。続けよう。



斉四爺との距離が不確かになりはじめ、山のように大きくなったり元の大きさに戻ったりを繰り返した後で、ネズミ猿による背中の痛みの中気を失った「ぼく」(敏菊)は斉四爺に半ば見捨てられた状態でベッドに縛られているのを発見することになる。動けず、想像のなかで永植となった自分を想像しはじめ、夢の中のような生成変化に従いつつ、父がいる家の前へと辿りつく。
「内向的で暗い男で」ある「父」は、先の永植を繰り返すような形で道の向こう側から「ぼく」に呼びかけるという形で以前に登場していた。彼の父は「末世の光景」を見ているようで、それはもしかすると彼らが居る暗夜のようでもあるかもしれない。夢から覚めた後、斉四爺が猿山を離れた理由が、父が猿山に訪ねたことがあることと共に語られることになる。

話が終わると、家の外には馬がおり、斉四爺は馬がいるからにはもう先には進めないといい、見捨てたように消えてしまうが、「ぼく」は進む。一輪車を押す人物に出会い、そこで人物の外見とその自称の食い違いに遭遇する。くどいようだが、「痕」にみられる「鍛冶屋」と「漢方医」、または茶店の「亭主」を思い出させることを書いておく。


道の下に下りれば猿山に着く、という事を聞くが、下に降りる階段が見つからず、階段から出ないと降りられない。そうするうちに彼は父に出会い、猿山に行く決心をしたこと、おそらくはその自発性を褒められることになる。意思がここで問題になっているし、他の小説においても、決意の契機が、ある種の耐え忍ぶこと(の成功や失敗)が賭けられているのではないか。
敏菊が家に帰った時にもまだ夜は明けておらず、彼の再出発は夜の明けぬうちに行われるので、それはいつまでも暗夜であり、やはり末世を歩き続けることになる。道は猿山のある烏県にしか続いていないといわれるが、これは「帰り道」の「うちの裏は万丈の淵」と「いずれの道も行き着く先はひとつ」といわれたことや「痕」で足元は底なしの洞穴の、宙に浮かんだ平台を思わせる。そこでは力を使い果たすまで時間を引き延ばすことが賭けられていた。すると、結局何が言えるだろうか。この小説をほとんど冒涜的に要約して読んできて、最終的に何が表れただろうか。著者が一群の小説で語っていることは、このような方法で接近可能だっただろうか。


残雪の小説に共通する、ベケット的なモチーフを、日本の村上春樹やその後のライトノベルにおける、「世界の終わり」への接近に結びつけることも、連想の範囲においては可能なように思われる。しかし僕にはそれよりも、決意が契機を為すことのほうが気にかかった。世阿弥が「初心忘れるべからず」と説くのはなぜか。人間は初心を忘れるからだ。仏教で「不退転」が強調されるのはなぜか。人間は退転するからだ。陽明学で一時一時、良知に照合した判断が求められるのも、それが自然にはできない事だからだ。
これらはすべて、気質に左右される人間の現実態の悲しみである。これらの小説の主人公たちが行ったことは、結局無に向かって進み続けることを決意することではないだろうか。そして七哥が山にいって帰ってこなかったことは、仏教の出世間を連想させないだろうか。僕の今の問題圏に結び付けているのは認める。しかし、かといって僕にはこれ以外には読むことはできない。

「戦争の悲しみ」については別の日に書いた。
戦争の悲しみ:パオ・ニン - ノートから(読書ブログ)