モンテ・フェルモの丘の家:ナタリア・ギンズブルグ

アルトゥーロの島/モンテ・フェルモの丘の家 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-12)
エルサ モランテ ナタリア・ギンズブルグ
河出書房新社
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この小説は書簡小説の形で構成されている。我々が手紙や日記を書くとき、意図された読者との間に一種の想像的な関係を考えるが、それは結局自らの中の他者でしかない。手紙が実際に他人に伝わるときは、当たり前のことだが誤読されたり、場合によっては誤配されたりする。本書において手紙は、電話よりも真実を語ることができる方法として描かれている。例えばフェルッチョから弟ジュゼッペへの結婚報告の手紙の冒頭にはこうある。

ぼくはたしかに手紙より電話のほうが好きなので、このあいだから何度かきみに電話をかけながら、ひとつ言わなかったことがある。どうして言わなかったかというと、手紙のほうが楽だからだ。時間と空間を必要とする大事なことを話すのに、電話は不適当だ。電話はとるにたりぬこと、大事であっても、簡単なことを知らせるためのものだ。

(395ページ)
またアメリカに住むジュゼッペへのイタリアの友人ロベルタからの手紙からもひとつ挙げておく

ごぶさたしています。このところ、電話でしか話しませんでした。でも、国際電話だと、料金のことばかり考えてしまって、結局はなにも言わないで終わります。手紙ならたっぷり話せるでしょう。

(452ページ)
「手紙ならたっぷり話せるでしょう」手紙はなによりも会話だ。ただし常にあとから反省して書かれるものである以上、電話との根本的な違いもまたある。端的には

きみが電話をくれたとき、ぼくたちはほとんどなにも話さなかった。ぼくは泣いていた。君も泣いていた。涙の国際電話だ。

(542ページ)
のように。手紙ではあまり強い感情というのは出てこない。パメラでもそうだったように、手紙は何よりも筆者の思考を表現している。



ではわれわれがするように、手紙を読む場合はどうだろうか。そのとき、われわれには二種類の情報が与えられる。一つは手紙に書かれた事実、もう一つは筆者のアスペクト。我々は事実判断を読むとともに、それに付けられた振り仮名のように価値判断を読んでゆく。もちろん一般の小説にもいえる。しかし断然、手紙の集積というスタイルは解説の言葉を借りるなら「ポリフォニーのように」多層的な声を組み立ててゆくのに適している。
手紙はそれ自体では、ただにその筆者の視点を示すにすぎない。それは例えばロベルタが不動産を手放すべきではないという信念を持っているということや、ジュゼッペとその息子アルベリーコが、何らかの不和の状態にあるとか、そういったことしか示さない。ただし複数の手紙が視差的に構成される時には、なんらかの背後の像が見えてくる。それを換喩と呼ぶこともできる。
だからわれわれは本書の登場人物を実在の人間のように見ることもできるし、この重ねあわせによって構成された像が時間経過と共に変化してゆくイメージも、実体性を持って感じることができる。そう、本書の手紙には必ず書かれた日付が記されている。手紙とはまずは断たれた時間である。だから長い間手紙が書かれないこともある。一々例示する必要もないかもしれないけれど、

私は結婚したときは手紙をくれたのに、私は返事も書きませんでした。というのか、実は、あなたがアメリカに行ってしまってから、一度もお便りしませんでした。

(526ページ)

ジュペッタアメリカに行き、イタリアの事は手紙で知るだけとなって何年かが過ぎる。その変化の驚きが直接にえがかれることはない。例えば「失われた時を求めて」では長い時間を過ぎた人物の容貌や風体に刻まれた時間が「仮面舞踏会」の章で表現されていたけれども、本書ではそれはむしろわたしたち読者に内面化されている。つまり、あらゆることが起こって、それ以降もはや言葉を表現の道具として許可しないような感情が描かれている。それは最後の、非常に純粋な形で表現されたルクレツィアとジュゼッペとの手紙にもっともよく顕れている。
ルクレツィアはジュゼッペからの手紙を何度も読み返していた。おそらく本書の登場人物の中でもっとも執拗に。そして彼女の内面にはジュゼッペの像が出来上がり、その像を元にしたジュゼッペの感情についての推論を行ったりもしている。

でもわたしは、あなたたちが二人で出かけたり、二人で家事をしたりすると読んだときから、もちろん、わかってた。あなたが書いてくる生活はおそろしく退屈なはずなのに、あなたは元気そうに、熱っぽく書いてた。あなたの手紙を、一度しか読まないなんて事は無いのよ。しょっちゅう読みかえします。

あなたは納戸で寝かされてるのよ。子供をおしつけられて。ベビーシッターをさせられて。これがあなたのアメリカ生活です。かわいそうなジュゼッペ。こんな惨めなことになってしまって。
帰っていらっしゃい。荷物をまとめて、帰っていらっしゃい。アンヌ・マリーも、マギーもダニーもモルティマー夫人もおっぽりだして。こっちには、むかしからの忠実な友達が、わたしがいます。ほかにどう言っていいかわかりません。

(524ページ)
長い引用になったのは、ジュゼッペのアメリカでの友達ダニーは、いまや彼にとって唯一心を許せる人間のように思われるからだ。続いてジュペッゼからルクレツィアへの手紙。

ダニーはぼくのこちらでの唯一の友人だ。年はずいぶん違うが、気が合う。

昨日、ダニーと、ながいことアルベリーコの話をした。夜中の二時まで起きていた。

ルクレツィア、きみには死ぬほど会いたい。でも会いたくないのかもしれない。君に再会するのが、ぼくはこわい。面と向かって君と話すのが。ぼくたちは、あまりにもながいあいだ離れすぎていた。そのあいだに、きみにもぼくにも、あまりにもたくさんのことがおこった。

(543ページ)
小説という形でこの手紙を読む私たちにも、私がルクレツィアに帰しているのと同じような、誤解は常に存在する。またいくら手紙を熱心に読んでも、常に誤読の可能性は潜む。私たちがこの小説をすれ違いの連続に読んでしまうのは、すれ違いがあからさまに描かれているからだ。断片的なイメージにみえるのは、手紙がポリフォニー的に多層的に構成されているからだ。けれども、ルクレツィアがもつイメージは、それ自体をとってみれば完全に整合的である。

あなたがどんなか、わたしはちゃんと憶えています。あなたがいま、ここにいるのとおなじくらい、あなたのことを憶えています。

(546ページ)
ルクレツィアは最後の手紙で、ジュゼッペに部分的に同意しつつ、それでもいずれ二人で話し合えるようになると信じていることを告白している。(546ページ参照)対してジュゼッペは、むしろ自らの感情を阻害するものを大いに意識している。

もし、アルベリーコがぼくの息子でなかったら、もっとうまくいったかもしれない。(……)父親と息子という関係が全てをだめにした。

(543ページ)
解説のように、手紙などによって繋がる友人関係による緩やかな「家族」を志向しているとも読むことができる。しかしそれでもわれわれは、彼らはすれ違っている。これはモーリス・ブランショの「明かしえぬ共同体」だろうか。われわれに残されるのは、すれ違いのイメージと、場所の名に基づいた記憶の数々だ。(「マルゲリーテ」「ナザリア・サウロ街のアパートメント」「レストラン・マリウッチャ」…)それらは過去、記憶の場所だけれども、不動産への執心を示すロベルタを裏切るように、かつての持ち主である彼らを離れ、別の建物としての歴史を刻んでゆく。
しかし、起こった出来事の悲しさに対して、彼らの未来にそれほど暗鬱としてものが想像されないのは、ただ私にそう思われるだけだろうか。

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