老いぼれグリンゴ:フエンテス

本書を読んでいくと、はじめは土地の小説、境界の小説のように思える。冒頭で、老いたアメリカ人(グリンゴ)が国境を越えてメキシコに現れる。

「あいつらはいつも境界を超えていたんだ。自分たちのも他人のも」そしていま、老人は南へと境界を越えていた。なぜなら、もう自分の国には超えねばならない境界は無かったからだ。

(「2」:315ページ)
本筋とは関係ないことだけど、例えば「オン・ザ・ロード」の作中の、最後の旅の目的地もメキシコだった。ともあれ、この国境の境界性はすぐさま、個人間の境界に接続される。

(「それじゃあ、このなかの境界は?」と頭を触りながらグリンガは訊いた。「それじゃあ、こんなかの境界は?」と胸を触りながらアローヨ将軍は訊いた。「わたしたちには夜にしか超えようとしない境界がある」とグリンゴ爺さんは応える。「それは、他人との相違になっている境界、自分自身との闘いのための境界」)

ここで、境界の越境は夜に結び付けられている。この箇所だけではなく、他にもある。
「メキシコの荒々しい砂漠が夜になったから、こんな話ができるのだろうかと老人は思う。」(「10」377)
なんともない打ち明け話の雰囲気から、ある種の親しさが見てとれる。ここで「境界」をへだてて対立しているのは孤独と共生だろう。じじつ、本作品では孤独は死に結びつき、反対に共生は死後の生に結びついているように思われる。

なぜなら、生と死の友好とか反目といったことはさておき、人生そのものにおいて、誰にも共通しているのは離れているということであり、いっしょにいるということではないとハリエットは確信していたからだった。そして、離れていることは、と優しくアローヨにいった。生きながらの死なのよ、そう思わない?

(「16」455)
孤立すること=「生きながらの死」。(また、「離れていること」が、自然である)この概念は本作品を象徴的に意味深くしているもののひとつに思える。しかし今はその反対(=共生)も確認しておこう。

わたしはあなたの時といっしょに帰国するわ、アローヨ。そして、あの老人の時といっしょに。その二つの時をしまっておくの、アローヨ。あなたにはわからないだろうけど、わたしはここで得る時のすべてを所有することになる。
[…]
「孤独は時間の欠如」

(「14」427)
他人は時間というかたちで、私たちに所有される、といわれている。つまり、孤独であるとは時間を所有していない状態のことといえる。この固有の「時間」は、どこか個人的な過去、共同体の神話や物語にも似ている。本作品では、この共同体の神話や目的の問題にも、洞察が加えられている。土地の所有に関する部分。

ミランダというのが持ち主か?」と老人は無表情な顔で行った。
「証明してみろ!」とアローヨはかみつく。
老人は肩をすくめた。「いまそう言ったじゃないか。ここはミランダの土地だと」
「だが、あいつらの所有地、とは言わなかったぜ」
[…]
「おれたちの書類はあいつらのよりずっと古いんだよ」

アローヨらの革命軍は、政府軍と戦っている。そのうちの一つの理由に、土地の権利や搾取の構造がある。それは抽象的には、二つの書類をめぐる、メタ-法といえそうなものだ。それはもっと後になると、よりはっきりとする。

「みんな、おれはみんなより上ってことじゃない。おれは書類を保管している人間にすぎん。だれかがその役目を果たさなくちゃならん。これ以外に、ここがおれたちの土地だということを証明する方法はない。おれたちの先祖の証文なんだ。これがなけりゃ、おれたちはみなしごも同然だ。おれは戦う、おまえは戦う、おれたちみんなが戦う。最後にこの書付が尊重されるためにだ。おれたちの命、おれたちの魂が……」
(「18」475)

本小説では革命は「動いたためしがなかった」メキシコ人の「動」き(415)、行動である。アローヨ将軍においては、彼の個人的な歴史も関わる(エディプス・コンプレックス)。しかし彼のうちに、再び「土地」=家に戻ろうとする傾向が生じる。上に引用した演説でもそうといえる。しかし彼はどちらかに決定するということはなく、むしろその揺れ動きのうちに留まっている。

「グリンガ、おれはまた引きこもってる」
[…]
「ここに帰ってきたから?」と彼女は言って、物わかりのよい人間であろうとした。
「違う」彼は激しく頭を振った。「それだけのことじゃない。おれはまた、じぶんのしていることにとらわれてしまった気がする。まるでまた、身動き取れないみたいなんだ」
あんたをおれに引き合わせる、そんな革命の運命の中に閉じ込められた、そう彼は言いたかったのだ。いや、アシエンダに帰ってきたからというだけのことじゃない。それだけのことじゃないんだ。([…])おれたちはみんな、夢を持っている。でもな、おれたちの夢がおれたちの運命に変わったら、夢が実現したといって幸せな気分にならないといけないのか?

(445)
革命を動きに例えたとき、それは行き先が決まった旅のような動きに思える。するとわれわれはその終わり=停止を受け入れるべきなのだろうか(それとも次の革命へとむかうべきだろうか)、という疑問のようにも見えるし、また、自由と必然性が同一化される、カントいらいの問題のようにも思える。
そして、彼が銃殺されるのは、暫定的にであれその書類、将来の権利を保持すること自体が許されないからである。それ、目的は革命のうちにある反革命的な要素であろうように思えるけれども、そのように認めてしまうと、空しさしか残らないようにも思われる。

もうひとつ短い挿話がある。それは教会や結婚といった規範の諸規則が押し付ける生活の儀式的反復である。

でも、男の生活が若い花嫁の生活につながれると、ミス・ハリエット、そのときには、そんな生活は暗い、繰り返しの生活になってしまう。いろいろなことが停止し、もうその先、それ以上花開かない。

(「19」477)
この部分の描写は若干カフカを思わせるような調子で、規則は無意味な刑罰へと近づけられている。一方の極には永遠の差異なき反復=停止があり、もう一方の極には終わり無き運動がある。それは規則の両面だ。では、時間の面においてはどうか。


境界の話に戻ろう。他者は時間というかたちで保有される。それはどこに保有されるのか。おそらく、家=「一つの記憶」にであろう。この記憶が「本当の願望」を生じさせ、楽園への動因となるような、そういう記憶である。

家は一つの記憶。唯一の本当の記憶。なぜなら、記憶は私たちの家なのだから。だからこそ、わたしたちの心の唯一、本当の願望に変わる。それはわたしたしのささやかな不確かな楽園、わたしたちの心の奥深く埋まり、貧しさや豊かさ、優しさや残酷さといったものがしみこまない楽園を探そうとする熱い思い。

(「16」446)
故郷=土地に結びついているのではないから、それは規則=規律とは関係を持たない。楽園を探そうとする思いとは、老いたグリンゴたちに国境を越えさせた当の思いのことでもある。

二人がメキシコにやってきたのは、彼は意識的に、彼女はしらないうちに、アメリカ人の意識の次なる国境(フロンティア)、最も超えがたい境界を見つけるためだった。[…]最も超えがたい境界、というのも、いちばん身近でありながらいちばん不可解であり、身近だからこそいちばん忘れられ、長い眠りから覚めたときにはいちばん恐れられる境界だからだ。

(「21」509)
境界を越えることは、もちろんある種の危険(もしくは恐れ)であり、ジジェクがいうには「賭け」でもある。しかしわれわれはいずれにせよ、その賭けをあえて実行するような場面におかれる事になるだろう。夜と共生について、バルトが書いている。(「いかにして共に生きるか」)
「<共生>おそらく単に、夜のわびしさにともに立ち向かうため」
頼れるもののない夜。それはわれわれを共生へと導くもののひとつだろう。バルトは同書で「リズム」と「リトミー」の差異についても語っている。大雑把に言えば、リズムとは規律的、反復的な押し付けであり、リトミーとは個人から生ずる独特の差異、ゆらぎを持った、リズムの完成である。この作品でいわれる、「一つの記憶」はリトミーに似てはいないだろうか。

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