パタゴニア:ブルース・チャトウィン

著者の六ヶ月のパタゴニア行きを基にして書かれた小説。南米のパタゴニアと呼ばれる地方への旅に幾つもの挿話が組み合わさる。本書の視点については、巻末の解説に詳しい。



「縦糸」つまりパタゴニアの土地が本作品の「横糸」厖大な物語群に接している。旅の道は無作為のように、規則性の無い羅列に見える。バルトが講義の運びに偶然性を取り入れていたことを思い出させるけれども、「おくのほそ道」のような旅の意図や構成をはかることもできるらしい。(「解説」)同じく解説にあった「キュビズム」とはやはり適切な表現で、本作品では挿話の比率が極端に多く、現在の旅が過去の語りによって常に圧倒され続けているようだ。(過去とはいっても、本書に現れているのはドゥルーズアガンベン等がいう潜勢力に近いのだろう、それが土地を介して溢れ出ている)



作品の終わり近く(95)で、気がふれたセールスマンが登場する。石ころを並べて、それらが「鯨」や「恐竜」「原始人の頭」だといいはる、神をそこに感じるという人物。想像力の方向においては、二人のスタイルは似ているようにも思われる。




もうひとつ、本書におけるインディオの言語についての考察から、言語の暗喩について。
「始めて言葉を使ったものはまず周囲にある素材に名前をつけ、それから抽象的な概念を示唆するためにそれを暗喩に変換した」
抽象概念は具体的な事物の暗喩である。暗喩はいかにして生じるか。それは具体的な名前の関係性によっている。
「事物に名前をつけることは位置を定めることである。それらを並べたり比較したりすることで、話し手はそれが次にどうなるかということを示す」
こういった言語は精神的土壌を共有する共同体を形作る。
「ヤガン族の精神的土壌をかたちづくっている暗喩的な連想の積み重なりは、彼らを打ち壊しがたいきずなで故国に結び付けていた」(64)
「きずな」や「故国」。暗喩的な連想はわれわれを個から引き離し共へと連れてゆくものに思える。また暗喩とは連想による、具体的な事物から抽象的なものへの移行、またはその痕跡でもある。「湿原――致命傷、あるいは致命的な傷を負うこと」といったような。
言い換えれば、ある表現が言語という規範に収まり、慣用的レベルに達した段階で、それはここでいう「精神的土壌」の小部分となる。付け加えれば、それはかつての連想の痕をとどめつつ、われわれに共同性を与えるものである。




またこの暗喩には命名行為や、過去の回想や再構成に似たものがある。それが言語にあらわれたり発話されたりするときには、それは常に過去の出来事の痕跡に過ぎない、という点も一致している。また、出来事や言語に意味を与えるのは、常に後から語られることによってでしかない。本書の語りにおいてもそれは変わらないように思える。本書の挿話もみな、チャトウィンが参照した資料と回想の証言から再構成されたものだ。
これが正しい過去にたどり着くかどうかはわからない。例えば小説の冒頭でミロドン、巨大なナマケモノの皮であるものを、語り手の母親がブロントサウルスの皮だと誤って教え込むということがあった。このため少年時代の彼の想像はある突飛な物語へと導かれたのだけれども、それはもちろん、現実の出来事ではない。そうでなくとも、記憶には誇張や歪曲がつきものだろう。




そのように読んでみると、本書の構成と一部の挿話のテーマ=興味対象にはどこか相同性があるように感じられる。著者はここで一貫している。過去と語りへの視点について、「藪の中」や「アレクサンドリア四重奏」のように、われわれに考えせしめるものがある。しかし、本作品はなぜ書かれたのだろうか。


チャトウィンの友人の一人に、アイリーン・グレイという女性がいた。彼女は九十三歳だった。

アイリーン・グレイの場合は格別に気があった。二人とも美しいものへの関心がとても強いにもかかわらず、その所有ということには反発を覚えるたちだった。
パリの彼女のアパルトマンでチャトウィンは壁に貼られたアイリーン手書きの一枚の地図に目を留めた。南アメリカのずっと南のほう。パタゴニアと呼ばれる地方。
「ずっといきたいとおもっていたところですよ」
「私もなの。でも私はもう歳だから、あなたが代わりに行って」
そういうわけで、一九七四年の十二月、彼はパタゴニアに向けて出発した。

(529ページ、解説)
代わりに旅に出て、そして思い出を話す。厖大な資料と実地の経験からなる、本書の見かけに反して、もしかするとわれわれに身近な関心が関係しているのかもしれない。(もちろんほんの想像に過ぎない)我々はだれでも、旅の思い出を話すものなのだ。

関連エントリ
アレクサンドリア四重奏

思考の潜勢力(ジョルジョ・アガンベン)