「ソドム百二十日」マルキ・ド・サド
隔離された城にサド的人物がやってくる。そこで百二十日の間淫蕩と残虐の限りを尽くすために、それはある種の「共同体」であるだろう。また何かが反転した姿でもあるだろう。未だ定かではない。サド的な駆動と、自己制作的な運動の二部分によって小説は成り立つ。何が駆動するのか。またサドの人物は自らのサディズムをディスクールにより装飾するが、本小説では装飾は駆動でもある。
サドの人物の哲学的な部分、自己装飾は「閨房哲学」に大いに表れていて、特にフランスでおおいに語られているのだけど、そこに付け加える部分を僕は持っていないし、また特に僕はそれらをよく理解/継承しているとは間違ってもいえないので、そこからはできる限り距離をおくことにしよう。渋澤氏が訳した河出文庫版は、小説の冒頭の翻訳で、その百二十+?日は描かれていない。ある意味でプルースト「失われた時を求めて」を読むような冗長さであり、実は非常に退屈するのですが、行為としての意味がそこに生じてくる。
ベンヤミン風にいえば、作動させる暴力とそれの維持があるというけれども、非常にそれと似通うように思えるのが、返って作動の特異さであり、また反復はサディズム的暴力をも反復するということで、おそらく近代社会が裏返されているのはその日常性においてなのだ。その食卓で交わされる会話は事象の選択であり、それはルーマンがいうシステム/環境の区別、つまり「内部も外部もない」オートポイエーシスのシステムがそこ(サドの城)では生まれているように見える。
だから百二十日は伸ばされる。もともと百二十日とはその作動前の計画だけども、作動の過程で自己の限界に至るまで、それは続けられなければならない。もともと外部環境とは隔絶された、システムでいう入力といえば食卓での話しかありえないような関係であるから、その作動は長くは続かなかったのだけれども、論理上は。