『近代政治の脱構築』・・・ロベルト・エスポジト

エスポジトはイタリアの思想家。ネグリアガンベンと並び、現代イタリア思想を牽引しつつある。
http://urag.exblog.jp/3417995/

それではその入門書ともいえる本書は何について書かれているだろう。答え、国家について、生-政治的な国家について。

共同体の分析と、免疫的民主制の分析の二章に、大まかにいえば本書は分かれる。共同体を分析した三篇は、「共同体と法」「共同体とメランコリー」「共同体とニヒリズム」と題され、大体ルソーからカントを経てハイデッガーにいたる流れがそれぞれに基づいて再構成されるのですが、ルソーが予感していたある種の人間の不完全さが、カントを経てハイデッガーに至り現存在の有限性、つまり世界-内-存在として定式化される、またそれに伴って法が人間を内化する過程がある、ということを「法」の章ではいっています。この場合の共同体は存在のある種の否定性そのもののように思われる。ところでこの否定性はラカンの超越的シニフィアンとも比較させられて、「メランコリー」の章ではそういった視点から共同体を語りなおしています。否定の分有としての共同体から見てみると、共同体に反するものと思われてきたメランコリーは、実は共同体の性質そのものだ、というわけです。ところでこのメランコリーが引き受けるものはモノの空虚ですが、これを引き受けることによって「共同体」は「空虚の空虚」を偽装する。だから二つの空虚があって、ハイデッガーがみていた虚無などはその偽装以前のもので、この空虚があらわになるのが現代のニヒリズムで、というのが大体「ニヒリズム」の内容だと思うのですが、だからつまり同じ事を違う側面から語っているのでした。


後半にようやく「免疫」化という概念が登場します。これは訳者の詳細な解説があったけれど、ルーマンのシステム論的にいえば外部も内部も無くなった、本来内部を外部から護るはずだったのが、実は外部をある無害化する方法で取り込むこともできる。これは僕のすこしずれてて暴力的な単純化だけども、「無害化して取り込む」システムの働きだともいえるかもしれない。ただしこの概念がどこまで通用するのかはいまいちわからないのですが。例えば後に「非人称の哲学に向けて」でヒューマニズムを再考し、フマニタス(人間性)が奴隷との差異によって構成されていた、という。これも実は原始的なシステムが人間を免疫化したといえなくもないのではないかしら。

あと全体主義を論じた章でエスポジトは、われわれは裏返しのマルクス主義の時代にいるのではなく裏返されたナチズムの中にあるといっています。これはどういうことかというと、まず「全体主義の起源」のハンナ・アレントの批判があって、アレントにとってはナチズムもソ連も同じように全体主義国家なのですが、実はそれは違って、ナチズムはイデオロギーに国家が自己を同一化するような構成をとっていなかった、ナチスは生政治の反転としての死政治なのであって、それは公衆衛生への関心にも表れている。人格という概念はもともとから野蛮人や奴隷との差異によってあるシステム論的な入力の形式として限定されてきているのですが、するとシステムの変化によってシステムにとって人間が立ち現れる仕方も変わるのでそういった危険があって、つまりそのシステムの変質のひとつを免疫化といっているのだと思いますが、するとその免疫化と人種差別-主義が混じりあったときに危機が起こる。ここでエスポジトは国家をすこし単純に免疫の生態学的なモチーフに還元しすぎているのではないか、と僕は思ったのですが、ともあれそれは今も続いている。これは実感にあいますし、現代ますます重要な問題です。

そして最後に非人称の哲学に向けて道筋が語られますが、正直これはよくわからない。ハイデッガーなどは哲学の始まりに自然との分裂を見ていますし、また理性と肉体との二元論に似た分裂は結局相克とまではいかなくても対立になる。また人格の起源にはある種の限定があるし、これは「生」の差異を否定してしまう。そこでドゥルーズなどが持ち出されて、ある種の示唆が与えられるわけですが・・・。


ともあれ、どうまとめたらいいのだろうか。デリダ「友愛のポリティックス」において示されたのは、共同体の思考は、実は「共に」や「われわれ」についての問いが不十分なままに留まっているということだった。しかし共同体の本質は、共にあることである(こうやってかくと馬鹿を露呈していて恥ずかしい)。それを問う為には、ある見取り図としても役立ちますし、また近現代の政治への我々の認識を考えるには優れた本だと思います。

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岡田 温司
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