『日本文学史』(『俳句の世界』)小西甚一

日本文学史 (講談社学術文庫)
小西 甚一
講談社
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文化を輸入してきた日本。伝統芸能として現存していますが、それは大まかに言って日本化されてきた。別の言い方をすると、表現してきた。西洋が自己分析の結果発見したいわゆる英雄時代や原始共同体のわれらの文藝(歌謡や神話)は万葉や古事記の記述に痕跡としてのみ現前しうるようにしてある。(または木簡に?)
その時代に小西氏は日本的性格の原型をおいて、それが輸入される文藝が過程において蒙る諸々の変化の要因やそういったところに顔を出すという風にいっておられるように思える。もっとももともととらえどころの無いものであるのだけれども・・・。


ともあれ、ある近代の切断があるのだが、それは読者と作者との分離であり、分離による階層化の高みが真に芸術的であるという切断だった。そこで第一芸術と第二芸術が転倒する、そういう西洋の受容があった、とかかれている。
おそらく、それこそが雅と俗の交代でもあるのだろう。江戸時代を移行期として位置づけ、中世と近代の差異は中世の差異は細かな差異を味わうということで実は自足した雅だった。対して俳諧は(小西氏の考えでは、当初はこれが雅-俗の中間を表していたらしい)、俳諧の自己同一性は、実は雅に対して自己を差異化する、つまり雅ではしない表現をすることにあった。(俳言)どこで読んだかは忘れたけれども、どうも中国において雅俗の区別は、雅が俗から自己を差異化することだったらしい。つまり俗でないものが雅というわけ。
雅がそのような構造を持っているし、俗は雅からの逃走であるし、しかし俗において芸術が誕生しないわけではない。確かに芭蕉や、歌舞伎・・・。それは芭蕉がいう、不易流行に端的であり、僕は全く門外だけれども、もしかすると守破離でもあるかもしれない。

「日本文学史」はまちがいなく日本文学史を通観しているのだけれども、読者にはそれを簡単に許さないようなところがある。読みにくいわけではなくて、むしろ非常に読みやすい。それは平明な語り口と、ページ数の制約もあって、かえって次々と展開してゆく強度だろう。しかし後になって考えてみると、その背後に潜在している圧倒的な知識がその通過を可能にしているのであって、我々が小西氏とともに通った道は、我々がもう一度独力で通過することを許さない未知でもある。というわけで、勉強用の本も著されている。でもこちらは難しいので、注意。

古文研究法 改訂版
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そして中世(近世)の俳諧に近づくためには「俳句の世界」がとてもよかった。連歌からの差異化から生まれた俳諧が独自の雅的な完成を起こしたのはなぜか。何度もはっとさせられました。
俳句の歴史を辿ることで、かえって俳句の自己同一性の根拠のよわさがわかるので、そういう視点から見ると(つまり小西氏に従っていくと)自由律やあまりに前衛的な俳句は他のものに吸収されてしまう。(俳句に固有な本質などはない)それは俳句や他の和歌諸藝術が結局文藝の部分であるという、近代性に関わっている。結局五七五と季語という形式にしか俳(諧-発)句の同一性はない。
また芭蕉の俳風つまり蕉風の分析も突出していた。芭蕉(の俳句)が「生きた俳諧史」的な多様性をもつということから、その全体としての継承は事実上不可能に思える。実際その後を見るに、軽く散種的とでもいえるような状態に思える。もちろんそれを悪いとかいいとかいうのではないのですが。