『自由の経験』・・・ジャン=リュック・ナンシー

自由の経験 (ポイエーシス叢書)
引用からはじめる。

未だ何らの立場という如きものを取らざる以前の世界(…)即ち真の与えられたる直接経験の世界、カントのいわゆる物自体という如きものは、如何なるものであろうか。(…)(これは本来宗教の光景であるが)試みに哲学の立場から論じてみれば、余はこれを絶対自由の意思の世界と考えて見たいと思う。我々の種々の能力を綜合統一して、自由にこれを使うことのできる人格的統一の体験、即ち絶対自由の意思の体験が我々をしてこの世界を髣髴せしめることができると思う。

西田幾多郎哲学論集Ⅰ,p.11『種々の世界』)
西田がここで言っているのは、「アプリオリアプリオリ」としての自由意思の世界、それは無数のアプリオリ(物理的世界、歴史的世界、心理学的世界、数理的世界・・・)を生み出す、つまりある種の認識論だけれども、太字で強調した「絶対自由の意思の体験」という言葉に僕は大きな衝撃を受けたのだった。

「自由の経験」の話をはじめる。しかしまずナンシーの自我についての記述を確認しておいたほうがわかりやすいと思う。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0816.html

私が書いている間、私は理解する。知解作用とは、選ぶべき、見分けるべきものの取り集めにほかならない。それはつまり読み取りであり・・・

(エゴ・スム,p.73)
本当はどこでもいいのだけど、覚えていたところを引用した。しかしもしかするとここは不適切かもしれない。なぜならこの箇所は、デカルトに模されて書かれているからだ。
そして私は元初的には、口腔性と呼ばれる性質の、間隔化の働きである。それはおそらく自己の場所を特異的に開くこと、そういった元初をいうのだろう。それを与えるのが、ナンシーにおいては自由である。

そうなので、この本で書かれている自由について、素描することにしようと思う。ある意味においてそれは思考の場所を開く、というか、土台である。本当はデリダからの比較、特に「触覚」については必要かとも思うのだけれども、とりあえずはおいて置く。とりあえず、この自由概念を確認することなしには、どんな話もできないだろうから。

自由は長い間、必然性に従属してきた、とはいわないまでも、必然性と相対していた、とナンシーはカント、ヘーゲルサルトルなどを例として語っている。それは定言命法や、実存主義などにおいて展開された自由の諸テーゼである。これを転回する可能性を、ナンシーはハイデッガーに求めている。なぜなら彼はこういっているからだ。

「自由の本質は、我々が自由を現-存在の可能性の根拠として、つまり存在と時間以前に見出されるものとして、探究される場合にのみ本来的に眼差しの中に入るのだ」。

(自由の経験,p.28、また同頁に依ると、ハイデッガー全集三一,p.138)
そしてナンシーは自由を分有される贈り物として捉えようとする。また自由は(恐らく他の)自由に向かう。それは根拠の根拠として、自ら無根拠に、ただ実存してある。(根拠とは体系においてはアプリオリであった)
自由は自己固有化できない。つまり「了解不可能としてしか了解されない」。その自由とは思考であり、ロゴスである。というか思考の独自な開けを開くのだ。すると思考とは贈与であり、思考の際の取りまとめがそもそも贈与として成り立っていることになる。コギトの仮構において、自己は(外部との)極限でしかない。(「(コギトの)実体性が一般に、ないしは絶対的に、極限であるということ」)

そして自由は常に開始であるとされる。自由はその都度ごとの決断である。それは過去(もはやない)と未来(未だない)という必然性を含む図式の外部から「不意打ち」する到来なのであるとされる。
そのようなものとして自由が考えられた後に、恐らく必然的であろう、善悪が問題となる。それは本書に深く刻み込まれていることであり、あらゆる自由論において何度も語られた問題である。
自由が悪を本来的に呼び込むであろう事を確認した後、ナンシーは書いている。「自由は善に向けての、かつ、悪に向けての自由である」しかし「実存者はその固有な現存性を彼へと投げかける呼びかけによって悪と証明されているのである」つまり無辜ではないという意味で、悪いということになる。
しかし、思考を事実にする(要するに思考する)ことの分析において、われわれが(思考によって)既に決断へと向けて決断していることが明らかにされるのもまたここなのである。それは結局、道徳を与えはしない。

そしておそらく、これらの規定(道徳の諸々の規定の事)それ自体が、決断の一般的な空間において無際限に更新され、再討議され、再交渉された決断の事実でしかありえないのだろう。

(p.245)
そして、決断不可能なものの決断とは、自由の空間を開くことでしかないのだ。

決断としての決断は本質的に「開くもの」「空間化するもの」だということである

(p.246)
それは結局、存在が露呈されており、新たに決意することができることという意味で、贈与性である。
常に新たに思考しはじめることができるという自由が贈与であるというのは、この事である。


と、大体このような自由がハイデッガーに即して語られているように思われた。それはまだ大きな潜在性を持っているように見える。文章は難解だったけれども、面白かった。

http://polylogos.org/books/nancy.html
中山元氏による内容の章別の要約です。文脈を見失うことも多いだろう本書の難解な脈絡において、大いに寄与するだろうと思います。

また西田幾多郎については、いまだに読み直している最中だけれども、どうも接触させることができなかった。それは例の冒頭などに一瞬接線を持つのみで、問題意識が異なっているように思えたからだけれども、見直してみると実に混乱をもたらす書き方になってしまった。これはいつか書き直したいと思っている。

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