メルロ=ポンティ 触発する思想:加賀野井 秀一

メルロ=ポンティ 触発する思想 (哲学の現代を読む)
加賀野井 秀一
白水社
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非常によい入門書。文章に堅苦しいところは殆ど無く、メルロの身体論を極めて明快に書いている。メルロの文体は具体的だというし、抽象的な言葉はこれくらいにして、すこし見てみよう。本書では「行動の構造」「知覚の現象学」「ヒューマニズムとテロル」「弁証法の冒険」「シーニュ」「眼と精神」「見えるものと見えないもの」を読んでいる。主著が尽くされているだけでなく、メルロの生涯を通じて不変だったものと深化していった思想が両方浮かび出てくるようになっている。

また、「知覚の現象学」については松岡正剛氏が書いている。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0123.html

本書を元にして整理すると、まず「行動の構造」では、三種類の質的に異なったゲシュタルトの秩序「物理的秩序(物理現象が系に依存して統一されること)」「生命的秩序(規範によって統御されること)」「人間的秩序(生命的秩序の枠組みを超えた人間の行動)」の三つと、また行動について量的に異なる三段階「癒合的形態」「可換的形態」「象徴的形態」、これらは環境の抽象化の度合いである、を導入し、この差異のみによって、つまりゲシュタルトの差異を用い、世界を説明しようという試みがなされる。
また「知覚の現象学」では、後期フッサールの生活世界を、「生きられた世界の所構造はそれはそれでまた、第二の還元によって普遍的構成の超越論的流れのなかに置き戻されねばならない」にもかかわらず、生活世界はそのすべてがデカルトの明証性に還元されるものではなく、構成は「生きられた世界からけっしてその不透明さをはぎとったりはしない」と解し(p.109)、与件としての知覚の「図-地」(ゲシュタルト)構造(p.118)を「地平」に繋げ、真理を知の推移に結びつけ、「私」に先行するものとして世界と身体の間の関係、「身体図式」という概念を導入し、身体が「私」よりも先駆的に世界と関係を結んでいることが、世界-内-存在として定義される。

ここからは、原則論が終わり、後は広がりを見せる段階に入ってくるので、あまり範囲を広げすぎないために省略を交えつつ要約してゆく。すぐれた解説を要約すること自体が間違っているのかもしれないが、他の方法を知らない。『「ヒューマニズムとテロル」から「弁証法の冒険」へ』と題された章では、いかにサルトルの政治参加などに関連して両者が決別したかに絡めて、サルトルにおける主観と客観の分裂に対応するために、間主観性とその媒介たる象徴機能の分析を必要とした経緯が語られ、「シーニュ」ではソシュールの言語論から、ラング(ある言語における文法的な体系)を通じた世界の切り取りという規範から、パロール(具体的な発話)の創造作用をその逸脱、差異化として定義する。「幼児の対人関係」では、対人関係の状況においても人格に先立つ「笑い」や「痛み」のゲシュタルトが先行してあること、幼児期の言語習得は世界にすでに存在するある知覚様式への同一化とされること、またそれをラカン鏡像段階と結びつける。この視線は絵画論に連接され、「眼と精神」において絵画における自画像などの問題として捉えなおされる。こうしたメルロ=ポンティの思索の発達をおいながら、本書の最終章はついに未完の書であった、「見えるものと見えないもの」の読解にあてられる。

大雑把に言えば、そこでは、世界を一元的な「肉」として捉え、そこから主体化などの存在論的発生を説明しようとしている、といえると思う。そこではやはり言語論、先行する制度のようなものが持ち出され、制度的な主体として形成されるらしいのだけども、いらぬ誤解を与えたくもないので、興味がある方は読んでほしい。

メルロ=ポンティの読書案内として優れている本書は、彼に対するイメージとしてもっていた近づきがたさから解放してくれた。よく整理されていなかった身体論などについても具体的に書かれているし、読んでみたいと思う方は、よんでみるといいと思う。