影のない女:ホフマンスタール





精霊界の姫を妃にした帝は、三日の間に石と化してしまう。姫の父王は姫の護符に以下のような呪いをかけていたからだ。

この帯を解く人間に呪いと死あれ。そを解く手は大地より影と共に己の定めを買い取らざる限り石に化すべし。……内なる心のみ生き止まり永劫の死を生命の舌の根もて味わむ。

それを知った妃は、帝を救わんと影を人間から手に入れに往く。妃の乳母は人間を蔑み、一刻も早く姫を精霊界に連れ戻したいと考えている。彼女らが影を手に入れようとする家は染物屋バラクとその妻、バラクの弟三人が住まう。バラクは妻を愛しており、未だ見ぬ子供を待ち望む。しかし妻は親から決められた婚姻に不満足であり、子供を生みたくもなければ自らの美貌を現在の結婚で腐らせることも望んでいない。乳母は自在に姿を変えることのできる、今回は美丈夫に変身した精霊エフリートを差し向けて妻を誘惑し、夫と影を捨てさせようと仕向ける。その策略は成りバラクの妻は影を失うが、かえって精霊界で裁きをまつ身となり、また帝も石像となり果ててしまう。

ホフマンスタールのこの作品を読むと、演劇的だなあと思う盛り上げ方が多く、実際にシュトラウスが作曲したオペラの台本である。(未見)また、訳者解説から言葉を借りつつ少し先取りして言えば、この作品は高貴な魂(妃)の自己犠牲により、人類が救済されるという主題をもつ。

あらすじは上の説明で掴んでもらえたものとして、ここからは作品を読んでいく。

  • 1

妃と帝が出会うのは、妃が羚羊の身体に乗り移っていた時、それを狩猟する帝との出会うことによってだ。帝の鷹は羚羊の足を挫けさせ、羚羊の命を救う。急いで姫は人の姿に戻り、帝のもとに駆け寄って、羚羊を狩らんと興奮のさなかにあった帝を制止する。帝の顔は一瞬のうちに愛する男のそれとなり、姫を見つめる。云々。
その時帝の鷹は、妃を翼で打ち、帝は妃を庇う。激昂した帝により鷹は追い払われるが、その去り際の視線は帝を戦慄させるものだった。

つまり二人を出会わせたのは帝の鷹ということになるが、今はこれ以上立ち入らない。この鷹はこの日以降王のもとに戻っておらず、王がこの鷹を捕まえようと狩りに向かうのが小説の冒頭である。その鷹はまた妃のもとに不意に現れ、妃の護符を返す。この護符により彼女は帝に降りかかった呪いを知ることとなり、自らに影を与えんと人間界に向かおうという決心をすることになるのである。

  • 2

妃が乳母につれられて人間界の繁華街で見たのは、動物の虐待される姿だった。ホフマンスタールの本作品においては、動物と子供とある種の精霊は罪の無さ、無垢さという点における共通性を獲得している (逆に人間は恐ろしいものである)。妃が動物に変身できる護符をもっているのもそうだけれども、他にもわれわれはそれを見てゆくことだろう。本作品のなかにどこか自然崇拝のようなかんじが漂うのも、おそらくそのためだと思う。ともあれ、繁華街で動物が受けていた扱いを引用しておく。

そのときとつぜん、妃は大きな騾馬の蹄にぶつかった。動物の賢そうな、やさしい眼差が妃とかち合った。妃はその眼差にほっと息をついた。しかし、馭者は震えている女を踏みつけまいとして躇っている騾馬の頭を、棍棒で殴りつけた。

そこには薄紅色がかかった金の鱗を光らせた美しい、小さな魚が、いくつも並べられ、それを一人の黒ん坊が手で掻きまわしていた。梁には、皮を剥がれた仔羊が、首を垂れたままの姿で、吊り下げられていた。その眼は、妃をやさしい眼差で見つめていた。

(いずれも二章冒頭)
そのうちに、彼女らは上に述べておいたバラク夫妻の家に辿りつく。乳母が案内していたのだった。乳母がバラクの妻の不幸な結婚を哀れむ男性がおり、彼のもとで豊かな生活を送ることができる、という甘言を述べると、妻は乳母を怪しみつつも受け入れる。

ここで影を手放すときの儀式が乳母により描写される。それは川に背中を向け、七匹の小魚を水の中に放り込み、呪文を唱えるというものだ。この少し前で、魚は未だ生まれていない子供の象徴として描かれている。つまり影を失うことと出産の能力を失うこととは等価である。何も産まないものは、影を持たず、また老いることもないとされるということでもある。

  • 3

乳母がバラクの妻のもとに寄越す男は、精霊エフリート族の丈夫だった。彼はデモニッシュな魅力を備えており、彼の邪悪さはあからさまなのだけれども、それは暴力的に女性に忍び寄ってくる。女房はこの魔霊的なものに恐れをいだくが、同時に誘惑されてもいる。

彼女の眼は、男の視線が迫ってくるのを防ぐことができなかった。女は心の底の底まで開ききってしまった態で、男の前に倒れ落ちた。
<あの眼だ。わたし、こんな眼を向けないでって言ってるのに>

このような男を見たのははじめてだったろう。妃はこれを奇妙に、また不快に感じる。

<あの男はこの女にとって何なのかしら。この女はあの男にとって何なのかしら、二人のあいだはどうなるのかしら!なぜこの女は男を半分しか拒まなかったのでしょう?この人たちは、いったい何をしようとしているのでしょう?>

(三章)

  • 4

帝は自らの、未だ生まれていない子供達と地下の部屋で会話する。この神秘的な場面はわれわれに、帝を石化させるものが、単なる姫の父王の呪いのみでなく、彼がもつ未だ生まれぬ子供たちへの責任でもあるように思わせる。
帝を歓待する子供や乙女は、帝にとってどうにも手に入らないし、質問に答えることも無い、思い通りに行かない他者である。この他者は、未だ来たっていない。彼らは群れとして存在しており、この群れを離れて個別に認識されるとしても、それはつかの間のことで、すぐに見分けがつかなくなってしまう。

二人は皿を運んでいる群れのなかに滑るように入り込んだが、中にまざってしまうと、もう他の子供たちとおなじような子供になっていた。

そして彼ら、子供たちはもう一人、ここに存在しないもののために食卓を運んでいる。妃である。ここで帝が裁かれるのは妃が「ここ」に存在しないからだということがわかる。つまり、影が無いことの意味がここでようやく明瞭になる。
本作品においては時間の二つの相がある。ひとつは流れ去る時間で、もうひとつは瞬間である。瞬間に属する妃、姫は、未だ完全には時間にとけこんではいない。だから帝と共の時間を、彼女は過ごしておらず、未来の子らとも時間を共有しないが故に、彼女は子を宿していないのである。だから精霊と人間との差異とは、象徴的には影の有無、顕れとしては永遠の若さや不妊であるが、本質的には時間の相における差異なのだ。
帝は立像と化し、身体は硬直しつつも心は悲しみの内に永遠を過ごす。帝の時間が変化したのだけれども、それは帝が精霊となったわけではないだろう。むしろ逆に、帝は永遠に引き伸ばされる時間のもとに置かれてしまう。この引き伸ばしと瞬間的時間とは、ともに永遠に触れてはいるものの、やはりまったく違う。
また、この章において、先ほどみてきた王の鷹、王のものでありながら王が捕まえることのできない鷹が、実は彼のまだ生まれぬ子供のうちの一人であることが知られる。つまり、未来が過去に影響を及ぼしている、というか、未来が現在に現前しているのだ。しかしこれは単純な決定論ではない。ホフマンスタールは未来の単一性を信じて、こういっているのではなく、むしろ未来が流れ去る時間に属し、つまり変えられるからこそ、未来について責任を持たねばならないといっているのだ。そうでなければ、続く第五章でバラク夫妻が葛藤する説明がされない。

  • 5

ラクの夫に対して、妃は責任を感じる。彼女の影を手に入れるための手段が、彼の不幸をもたらしたからだ。彼の不幸と、女房が影を捨てる一連の出来事は、先ほど見てきた未来の子供への責任、いまだ存在しないものへの責任について、逆の方向から照射したものとなっている。

<そうさ、正しいのさ>と、彼女はいった。たいそう自信のある調子だった。<生まれてほしくない子供を片づけてしまうのは。だって、そいつらは恥知らずの好奇心を持ってやってきては、わたしのからだのなかを通り道にして過ぎて行くだけじゃないのさ。これじゃ人殺しだよ。……>

<わたしはこれを背負いこみたくないんだ!>と、彼女はどなった。<こいつをすぐ起こしてくれ!>

未来の子供への責任は、現在属している。この責任は単純に逃れうるものではない。なぜなら無数の未来において、責任もまた無限だからだ。彼女はもはやわれわれが出合ったときのような、結婚生活に満足しない、単なる夢見る女性ではない。今の彼女は影を捨て去ることで、未来への全ての責任から逃れんとしているのだ。

<……その人は、それ以上のものはないすばらしいものを、わたしにいつまでもくれるんだよ。だから、私はその代わりに、生贄になってあげなくちゃならないんだよ>

影は未来への責任を持つ、時間の中に被投された存在であるわれわれを象徴する。多くの含意をこめて言えば、それは世界内存在だ。バラクは彼女の苦しみを理解している。彼は彼女とは違って、未だ来たらぬ子供への責任を感じつつも、それを期待、待望している。
彼女の罵詈を赦すとき、バラクはじつに今までわれわれがみてきたこと全てを理解しつつ、耐えている。

<そんな言葉は>と、彼は言った。<大目にみてやらなくてはならん。そんな言葉を口にすれば、魂が安まるんだ。そうでもしなければ、人間なんて自分の荷が重過ぎて、とても耐えてゆけるものじゃない>

  • 6

ラクの女房は、<時が来た>と叫ぶ。この時はわれわれが生きているような時間ではなく、瞬間に属している。この言葉は、帝が立像になる饗宴においても語られており、つまり時間の質が変化するある瞬間を指し示す言葉として用いられている。彼女、バラクの妻が今までこれほど苦しんだのは、彼女が時間の中に生きており、要するに過去に負債を背負っていたからだ。

<時がきたんだよ>と、女房はいった。<わたしが母さんと話あって、自由になるときが。母さんがわたしに背負わせたことは、もうこれ以上我慢できなくなった。>

子供は責任の重荷であると共に、また未来への期待そのものでもある。彼女はそこから逃れることを望みつつも、結局そのように決断することができない。契約の執行は、彼女の知らぬところで行われる。

彼女は魚を持った手を肩よりも高く上げ、肴を投げた。しかしそれは睡ったままそうしているかのようだった。彼女は契約を果たしたのである。だがそれは何も果たさなかったようなものだった。

彼女の契約は人称に属していない。実の所、彼女の契約ははじめから人称に属する問題ではない。瞬間においては、それが為されるか為されないかでしか物事がはかられず、為されたとすればそれは常に為されたのである。(参照:アガンベン入門)
だから彼女はわれわれとして語るのである。すなわち、

<わたしたちは権利を手に入れた、要求をつらぬいた!>と、彼女はひとり、心に言い聞かせるように呟いた。

  • 7

無事バラクの女房から影を買い取り、妃を精霊界に連れ戻した乳母だったけれども、今や妃はその顔立ちや感性に至るまで限りなく人間に近づいており、怒りという感情すらみせるようになっていた。またバラクの妻は精霊界の漁師に連れられ、「黄金の水」の裁きをまつ身となり、バラクは精霊界で妻を捜している。

妃が精霊界を歩むうちに、われわれは妃の父王が自然法則のような、万物に内在する理のようなものであることに気づく。それはメルロ・ポンティがいう低次のゲシュタルトを連想させ、つまり予定=自然への態度によって、この作品における精霊・動物・来るべき子供の三つ組みが生まれていたのだ、とわれわれに感じさせる。

また大きな問題が残っている。時間の二つの相と、人間の位置である。人間的時間(つまり夫人が下した決断や帝の姫との結婚など)はみな《時》のなかで起こるにもかかわらず、妃の時間は《瞬間》のなかで起こるという。では、この《瞬間》とは、何を表しているのだろうか。それは時と何が異なっているのだろうか。

<わたしたちの母さんの話はみんな《時》のなかで起こることなのです。ですから、その話は取り消すこともできます――でもお妃さまの>……<お妃さまのお話は《瞬間》のなかで起こることでしょう。ですからそれは取り消せないのですね。お妃さまの運命はそう決まっておいでなのですね>

黄金の水が試練か決断を課すように、姫の前に帝だった立像を差し出す。それは姫に「遠隔の感じ」をもたらす。なぜなら、姫は影を持たないからだ。彼女は時間に未だ入っていない。時間が無ければ、決断も無い。妃は「首を横にそむけた」。
その時、バラクの女房の影が姫に接近し、姫の影となる。姫が影を持つ。時間の相が変化し、姫は自らを犠牲に供する決断をする。そして彼女はバラクへの罪と、また帝の罪も償う。

瞬間は時間の決断の相である。ある瞬間における決断においてしか、時は、未来は変化しない。もちろん、この決断にはこれ以上無い責任が伴う。それは無をはかりにかけることだからだ。

<おんみは、だれから>と、彼はいった。<瞬間と瞬間をはかり較べることを、教えられたのだ?……>

この近辺を今から読み返すと、著者の世界観がおぼろげに見えてくる。それを読んで、終わりとしよう。乳母が黄金の水について語る。それは決断を迫る切迫であると共に、チャンスでもある。

<……その水は秘められた能力に充ちているとか。姫に影を付けるように、力をかしてくれましょうか?>

影を与える、時と瞬間が交わる<時間>の中に姫を投げ込む、つまり姫を人間にするのが黄金の水だということは、本作品のはじめから示唆されていたことだった。それではこれらの時間の相を包括する立場こそ、ホフマンスタールにおいて「世界」の名に値するだろう。著者の世界像が見えてきたように思う。引用で記事を終えることにする。ここまで読んでいただいた方、ありがとうございました。

<黄金の水だけが、何事が起こり、何事が起こらないのか、知っています>と、少年は答えた。
<その水はわたしの父王に服従していますか?>と、妃が訊ねた。
<偉大なるもろもろの力は、お互いに愛し合っています>