オン・ザ・ロード(路上):ジャック・ケルアック

語り手、小説家のsalはニューヨークからサンフランシスコへ、アメリカを東西に二往復してメキシコにまで南下する。(参照)本小説が表現した文化的な一連は現代にまでその影響を及ぼしている。

本作品で語り手はつごう四度旅をする。一度目は1947年、デンヴァーへ、ディーン・モリアーティの後を追って、ディーンにアメリカの西部の感じと「長らく待望されていた、新しいもの」を発見して、ヒッチハイクをくりかえしながら。デンヴァーにしばらくとどまったあと、一度目の旅の二度目の出発は、デンヴァーからサンフランシスコへ。アメリカ大陸を東西に楕円を描くように往復して、ニューヨークに戻ってくる。

二度目はそれから一年後、ヴァージニア州テスタメントで久しぶりに再開したディーンに刺激されて、(虫がとりついて)ふたたびカリフォルニアへ、こんどはディーンの車に乗ってドライブする。警察に掴まったり、ディーンの彼女のメリールウがディーンに抱く不安などがいりまぜになった複雑な感情が知られたりする。ディーンにメリールウと二人、フラスコに置いてきぼりにされて、またメリールウも男とどこかへいってしまい、生と死のはざまのような状態でしばらく暮らしたあと、ディーンにつれられてカミールという女性、ディーンが小説の最後で彼なりに結ばれる女性の家にゆくけれど、カミールからかんじる疎外感などで、ニューヨークへ帰ろうと考える。

けれども彼から離れると、彼が感じていた生と死のゆらいだ感情は死のほうに傾いてしまい、ついには「デンヴァーまで来て、デンヴァーまで来て/ぼくは死んでばかりいた」と感じるようになる。ディーンとメリールウに再び会いたいと熱望して、サルがふたたびサンフランシスコへ戻っていくと、ディーンはまたメリールウを愛していたものの、すでに結婚してしまっていたメリールウの夫から「また見かけたら殺す」と警告され、そんな状況を見たカミールは「はげしく啜り泣いて」、またわめいたりヒスを起こしたりし、ついに彼らを家から追い出してしまう。salはディーンに、ニューヨークまでいこう、と誘い、かくして三度目の旅となる。ミル・シティでディーンが真っ向から批判されたり、彼の生地のデンヴァーで、彼が親戚や警察に蔑まれたり、また、行方が知れぬ浮浪者であるという、ディーンの父親についてなどが話られる。

本作品の最後を占める、ニューヨークからメキシコ・シティまでの四度目の旅でついにsalは、自ら旅に出ることを決心する。結局それはディーンとの同行となるのだけど、salのうちでの旅への没入がわれわれに知られることとなる。今までは大陸の果ては海に面していて、そこがアメリカの境界だったけれども、こんどはアメリカの南端を更に過ぎてメキシコまで彼らは行く。メキシコ・シティで語り手は赤痢にかかり、病床でディーンを見送ることになる。それから語り手はニューヨークに帰ってきて、そこでディーンとしばし再会して、そこでひとまず本小説は終わる。


四百ページほどの本作品を大急ぎでみてきたけれど、salの態度の変化や、ディーンへの視点の近さが変わっていたりと、いろいろと面白いところがある。(ただ、旅のエピソードが間断なしに続けられ、それが本小説の面白さの核でもあるので、この記事では小説自体の面白さは伝わらないかと思う。残念ながら)

ディーンの旅は、じつに目的から無為で、実際にはその放浪し続けの父親、浮浪者のような、ある種の極限があるのだろうけれどもそこをネガティブな場所に留めておかない強さ、確信がある。最後にその部分を引用して、この記事を終えます。

「でもな、おい、年取ってくると、気になる事が積みあがってくる。いつのひか、おまえとおれは夜明けによろよろとそこらの路地にさまよいこんでゴミの缶をのぞくことになるんだよ」
「最後は老いぼれの浮浪者になるってことか?」
「かもな。なりたきゃ、もちろんなれる、そういうことだ。そういう終わり方もわるくないよ。政治家とか金持ちとかいった他人どもがなにを望もうが、そんなのとは関わりなしで一生生きる。誰も邪魔しない、すいすいと自分の道(way)を進めるぞ」
(…)
「おい、おまえの道(load)はなんだい?――聖人の道か、狂人の道か、虹の道か、グッピーの道か、どんな道でもあるぞ。どんなことをしていようがだれにでもどこへでもいける道はある。さあ、どこでどうする?」

(第四部一章)

On the Road - Wikipedia