いかにしてともに生きるか―コレージュ・ド・フランス講義 1976‐1977年度 (ロラン・バルト講義集成):ロラン・バルト

ロラン・バルトの晩年の講義。講義の音声の録音や写しではなく(参考としたうえで)、講義ノートに逐次注を加えたものになっている。まえがきから少し引用すると「このエクリチュールのなかに入っていくには慣れるための時間がいくらか必要」です。
ともあれ、この年度の講義は、共に生きること(共生)、共同体をテーマにしている。テロスなき共同体がありうるか。イディオリトミー(個人の<リュトモス>(リュトモス:「揺れ動き、流動するものによって担われたかたち」近いものとして「リズム」があるがより個人的。詳しくは13ページ))、その思考は、概念の分析を通じて行われる。三十の概念(アケーディア/アナコレーシス/動物/アトス/自給自足/魚群/ペギン会/官僚制度/理由/部屋/指導者/囲い/隠遁修道士の集団/カップリング/距離/使用人/聴取/スポンジ/事件/花/牧歌的/周縁性/モノーシス/名前/食べ物/プロクセミー/長方形/規則/不潔さ/クセニーティア/ユートピア)がそれぞれ取り上げられ、最後にはわれわれに、思考の材料が残される。
またおそらく、本書について何かを書くためにはバルトを裏切らなければならない。(「私はそれらの特徴(トレ)を主題のうちにまとめあげることを望まなかった」(33))


バルトがイディオリトミーの名で構想している共同体について。他の共同体からの差異を示している部分。

さらにいえばわたしたちが求めるのは次の二極の間のゾーンなのである
――過度に否定的な形態。孤独、隠者の暮らし
――過度に統合的な形態。<コエノビウム(修道院)>(非宗教的であれ宗教的であれ)
――その中間の、ユートピア的な、エデンの園のように牧歌的な形態。つまりイディオリトミー。これがきわめて脱中心的な形であることに注意。

(15)
隠者の暮らし「モノーシス」は「<ヘーシュキア>=統合された状態、責任の零度、葛藤なき自由さ」(146)をめざす。また「コエノビウム」は、法=権力が支配する、社会の形態に相似している。


ではその中間の「牧歌的な形態」とはどういうことか。この概念の指示は「葛藤の不在によって定義されるあらゆる人間関係の空間」(133)とされている。それは差異を際のまま保つ、「恋人たちの共同体」?のようでもある。
「牧歌=一方では社会的ないし擬似社会的現実を転覆することなく温存し、等質的な諸要素間の差異を保ちながら、他方では等質的要素間の摩擦、軋轢、きしみを見えなくすることでその現実を消去してしまうような形式」
つまり現実の差異を温存しつつ、その軋みが存在しない形態。そこでは権力も存在しないだろう。なぜなら「権力は――権力の巧妙さ――はリズム不全、リズムの不均一を介して働きかける」(16)から。反権力という布置。

宗教的イディオリトミーをバルトは「アトス」の項で描写している。かつて存在した、アトス山上の修道院。それはバルトのファンタスム、イディオリトミーに像を与える。

アトス山上:共住修道院+孤独でありながら、構造の内部で結び合わされた修道士たち=イディオリトミックと呼ばれる集合。

(11)
その歴史的な変遷をみると、それは決まった形態をもたない。むしろ変化のしやすさこそが本質的である。

ここでもまた:形態の変化しやすさ(それはイディオトリミーの原理辞退のうちに含まれている)。

(53)

イディオトリトミーはあるときはひどく禁欲的、あるときはひどく弛緩し、きわめて貧しいときもあれば豊かなときもあり、快適であったり勤勉であったり怠惰であったり、といった姿を示すだろう。

ただし、唯一のゆるぎない原理が存在し、それは「権力に対するネガティブな関係」(57)である。(権力はリズムをおしつける。かえってイディオリトミーは集団化されない(差異を差異として保つ)リズムである)そのため、常に権力に対して外部に属している。つまり、イディオリトミーは、周縁性に属している。

イディオリトミー=全般的流動性≠確固とした地点:権力との関係。

(57)

それはイディオリトミーが、緊張の問題ではなく社会における周縁性の問題であるということ

(51)
歴史的には、共住修道制が第一の周縁として存在したが、それが四世紀に(キリスト教の国教化など)権力の側に移行した時に、社会が要請する位置にイディオリトミーは立たされ、第二の周縁(周縁の周縁)とされた。それは「自ら、構成員の小部分を終焉に追いや」ることでなされる。権力にとって目障りな外部。

構造的に、第二の周縁を形成:共住修道制の内部における周縁。(…)共住修道制が成立するやいなや(…)→隠遁生活の危険、害の告発。

(137)
社会は権力外でありtづける周縁性を放っておかない。時代を下ると、周縁的なものは社会によって監視されることとなる。つまり「排除されるものは排除されたという性格を保ったまま統合される」(123)。そのことが本書ではスポンジという例えで表されている。免疫化といってもいいかもしれない。(「アノミー的なものの位置をコード化することによってそれを統合する。危険のない場所で回収する」(127))
ともあれ、このような歴史的過程、権力との対立が、イディオリトミーに対して向けられる応力の源泉となっている。それだけでなく、「共同体中心主義にも、絶対的孤独にも、いつでも移行できる可能性」がイディオリトミー的共生であったアトスにも見られる。(55)つまり、イディオリトミーはきわめてあいまいな地盤の上にたっていることになる。(「名前」では(呼びかけ語に対する)固有名詞が常に代名詞によって代理されること=不在の対象を操作可能にすることの危険性(152)がいわれる)

特に規則について、イディオリトミー(反-権力)が常に権力へと移行する危険性が想起される。

規則=慣習は契約の概念を経て、規則=法(抑圧的体系の付加)へと向かおうとする。

契約=書かれたものが問題のようである。(われわれは書かれたものなしで生きることはできないけれど、)ともあれ、規則=慣習から法(「法は権力のイデオロギー的反転、権力のまとう衣装」)への移行が存在する。
同様に、規則と規定の差異も揺らぐことになる。規則は倫理的行為、共同化可能とはいえ個人的行為であるが、規定は権力=リズムの押し付けに属する。

<規則>(…)習慣に属する、つまりかかれてはいない(≠規定、法:常にかかれたもの)規則の特権的空間=イディオリトミー

<規定>:権力としての社会的なものの押し付け。かかれたものによる媒介=エクリチュール(…)は違反、すなわち罪を生み出す。

(176-8)
規則は常に規定に向けて傾斜する、ように思われる。「逆に、あらゆる規則は規定の萌芽を含み、あらゆる慣習は法の偽装された形であるとする批評的精神。」(178)


最後に(「ユートピア」)講義の綜合がなされる。そこで再び取り上げられるのは、距離の倫理である。

価値としての距離。(…)ニーチェは距離を強力な価値――稀な価値――として考えている(…)繊細さとは、距離と思いやり、関係における重苦しさのなさ(…)その原則は、他者、他人たちを操らない、操作しない、イメージを積極的に捨て去る、関係について想像的な物をはぐくみうる一切を回避する。=厳密な意味でのユートピア、なぜなら「至高善」の形態であるから。

(196)
他人と私のあいだには、あるアポリアがある。すなわち、
他人の身体により、われわれは混乱せられる。それは「私を消耗させる欲望の戦略」である。ゆえに、われわれは欲望の平安をもとめる。具体的には「規則」により、他人の身体を遠ざけることによって。しかしこの他人への欲望の殺害は同時に生への欲望の殺害でもある。(詳細は112ページを参照)

ただし、このアポリアにとって必要なのは規則ではなく、むしろ倫理なのだと思われる。

「共生」、とりわけイディオリトミックなそれは、共に住む主体相互間の距離に関わる倫理(ないしは物理学)をともなう。

(111)
本書にはユートピアの図像が示されているわけではない。そのフィギュールを「講義室内で並べ」ただけである、といわれている(198)ようにその像は我々に投げられている。

この方法の準備には果てしがなく、無限に拡張できる。

(201)
方法に反対して(「方法についてはなにも期待しないこと」(6))、バルトは本書において、方法の準備、前-方法を取った。それはバルトのファンタスム、つまり文化の起源、差異の産出としての第一の力としての力に耳を傾けること=文化の実践でもあった。
(また、文化=「選択的な力の作用のもとでの至高の形成、思考するものの無意識を巻き込む調教」が方法に対立させられたのは講義の冒頭でだった)

この前-方法によって描かれた像をこの記事ではそれを組み立てるよう試みたのだけれども、あまり上手く行えたとは思えない。記事にするには必要だったのだけれど、今見たようにその試みは最初から最後まで否定されている。

そして「ユートピア」は、あちらこちらで気まぐれに拾ってきた現実の断片によって構成される。非常に多様な文明、思想、慣習に含まれるすぐれたもののメルティング・ポット。

永遠に繰り延べられる準備によってのみ、ユートピアは考えられうる可能性がある。現在の時間には属さないものの。楽園への道、来るべき民主主義のように。