魂の殺害 虐待された子どもの心理学:レオナード・シェンゴールド

魂の殺害 虐待された子どもの心理学
レオナード シェンゴールド
青土社
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確かに衝撃的なタイトルだと思う。この概念はまず説明される必要があるだろう。

演劇用語としての「魂の殺害」は、たぶん十九世紀に作られ(…)イプセンはそれを他の人間において生命への愛を破壊することだと定義している。精神医学においては、パラノイドの精神病患者シュレーバーによってよく知られるようになった。彼が書いた『回想録』はフロイドの長い症例史の一つにおいて研究対象に取り上げられた。

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つまり他人への愛の不足が問題になっている。
それはいったいいかにして起こるか。児童虐待が、本書でいわれる「魂の殺害(soul murder)」と大きく関わっている。その形成を少し詳しく見てみる。

過剰刺激(性的虐待、また、たぶん殴打の結果としての刺激)は、比較的無力な子供において、トラウマとなる不安と激怒を呼び起こす。基本的欲求を満たされない不満もまた、ネグレクトされ、過少刺激しか与えられないということだから、憤怒と激しい性的渇望を生じさせる。その反動として過剰な刺激を求めるのである。

この過剰刺激に自己は防衛機制によって対処しようとするが、大抵それはうまくいかない。親に虐待された場合には、更に親への愛も絡み合う。

児童虐待の一番の破壊的結果は、おそらく、虐待される人が虐待する人を自分と同一視して、虐待する親または親代理にすがりつきたい欲求が生じることである。

児童虐待、特に小さな子供に対する暴力は非常に恐ろしい。適切かどうかは分からないが、イワン・カラマーゾフは子どもの涙が代償不可能であること、理念による調和との決定的な矛盾を感じていた。

おまえにこの意味がわかるか?じぶんがいまどうなっているかろくにまだ判断できずにいる幼い子どもが、暗くて寒いトイレの中で、苦しみに破れんばかりの胸をそのちっちゃ名こぶしでたたいたり、目を真っ赤にさせ、だれを恨むでもなくおとなしく涙を流しながら、自分をまもってくださいと『神ちゃま』にお祈りしている。おまえにこんなばかげた話が理解できるか。
(…)
そう、値しない理由って言うのは、子どもの涙が何ひとつ償われていないからなのさ。あの涙は償われなくてはならないし、そうでなきゃ、調和なんてものはありえない。でも、一体なんでもって償うのか?やつらが復讐されることでか?でも、やつらへの復讐がいったい何になる?(…)子どもたちがさんざ苦しんだあとで、なにが矯正できる?

光文社古典新訳文庫カラマーゾフの兄弟巻2、238、246pまた「プロとコントラ」中の「反逆」全体も参照)
大審問官に繋がり、またスメルジャコフの殺人をもたらすことになる思想を導き、調和を、神への信仰を捨てさせることとなったこの苦しみは、本書の範囲から大きく外れてしまうので、「カラマーゾフの兄弟」からは子どもの苦しみは考えがたいこと(アリョーシャはこの話に抵抗を覚えるし、イワンはそれを考えたがゆえに世界の調和という理想を捨てる)と、その根底にある、子どもの無力さを読むに留めよう。

本書に戻る。しかしあくまで個別の症例に限定すれば、本当に虐待が起こったのかをただしく知ることは難しい。虚偽記憶の場合があるからだ。本書ではまずそのどちらの先入見にも偏らないことに注意をむけている。本書では児童虐待とその悪しき結果としての「魂の殺害」を主題としているが、しかしその領域は限定されなければならない。
あとでいわれるように、子どもに対する決定力に欠けた親に、いわば甘やかされてそだった子どもは、親からの「否」を適切に受け取れず、内在化し得なかったがゆえに、「子どもがナルシシズムの満足を自ら制限づける手段を獲得」できず、ナルシシズム的な性格に育つ場合があるのだが、それが「現出する症状」は、児童虐待=魂殺害の被害者とよく似ているからだ。ようするに、魂殺害は新たな神話にならないように注意しなければならない。

本書の内容は象徴論などの詳論が主だけれども、その部分ははなはだ要約しがたい。もうお気づきとは思うが、本書のあらゆる部分に精神分析の論理と概念(エディプス複合、肛門期、退行、抑圧…)が響き渡っている。それにはやはり普遍化の危険性が警戒されるのだけれども、それでも私が本書に惹かれるのは、本書のあらゆる部分にちりばめられた人間精神への洞察と、著者の一貫した人間観によってなのだと思う。

著者によれば、トラウマ的過去は反復強迫というかたちで反復される。これは過去の逆転を願う、「こんどこそは(私の親は良い親になっている)」という期待であり、またそれは現状の否定というかたちをとる場合(「たった一回はゼロ回と同じ」参照)もある。この悪循環過程から抜け出させることが著者の一貫した目的であり、それは虐待の場合、他人への愛という形で獲得される。(つまりナルシシズムの克服)幼年期の愛が裏切られたという根底の経験から、それは容易ではない。だが、その必要性を著者は何度も強調している。

かつて虐待された子どもであった患者の治療は、ゆっくり時間をかけて内的感情世界を築き上げ、子ども時代に自分を苦しめた存在は今や力を喪っているという確信を作り出す考えを構築しなければならない。セラピストによって愛するという感情が喚起された――強制されたのではない――場合にのみ、これが可能になる。(…)
しかしながら、(…)大きく改善されるのは、次の二つの条件が満たされた場合だけである――長い治療のなかで、患者が自分を(…)「人間」とみなすようになること、そして患者の他者を愛する能力が許され、回復され、拡大されること――し、この条件を満たすことはきわめて困難であること(…)

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われわれは恐らく精神病である以前に神経症である、と少なくとも感じている。個人的な話だが、本書の意図とは少し外れたところでひとつ効用があった。本書を読みしぜん内省することとなり、そこで自分のナルシシズムを自覚できたことだ。それを認めるのは辛かった(今でも少し辛い)けれど、それを認めてゆかなければならない。個人的な話し終わり。
本書には虐待がもたらす症候についての研究がかかれている。それが冗長に感じるのなら、最終章(「殺人、暴力、そして魂殺害」)から読んでみるといいかもしれない。目的が著者自身によってまとめられているからだ。
そこに一つの倫理が書かれている。精神分析を受けた患者の言として。

これまでは、強迫観念に縛られる状況にとどめられ、それについて確実に考える能力を押し留めていたことが、今はっきり分かります。少なくとも現在は、それについて考え、それをある展望の中におくことができます。

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反復から抜け出ること。それは自らを「所有」すること、自らの心に意識が責任をもつことでもある。

どうもまとまりを欠いた記事のような気もする。これを読むことでかえって混乱させてはいないだろうか。本書の倫理は明快であり、治療の目的に従って各章は整除されている。著者は、補遺での態度でもそうだけれども、可能な限り普遍化を避けている。目的=倫理は明確だけれども、そこへの道筋は「謎」だとされている。本書も、比喩や例を超えた「方法」を提示するわけではない。なにをするべきかははっきりしている。強制収容所や、指輪の比喩、象徴は、すべてわれわれが抱えている問題に照らし合わさなければ意味を成さないだろう。なおさら、普遍的な読みはないだろう。