灯台へ:ヴァージニア・ウルフ

ラムジー夫妻、その子どもたちは翌日、離島に建つ灯台へボートで向かう予定をもっている。海が荒れてしまい、結局それは果たされぬまま、十年の時を二十ページに集約した第二部を通過した後の第三部で実現される。その時にはラムジー夫人や、何人かの家族が亡くなっている。三部で、画家のリリーは距離について語っている。

なるほど、それによって随分変わるものね。リリー・ブリスコウは染みひとつないような海を見渡しながら、そう思った。海が余りにも穏やかだから、船の帆も雲もその蒼のなかにすっかり融けこんでいる。いろいろなものが距離によって決まるんだわ。

(三部・11)
人と自分の近さ遠さも距離によって定まる。そして遠くのものは風景に融けこんでゆく。ラムジー親子の乗る海上のボートとリリーが絵を描く陸の館との距離や、ボートと灯台との距離、そして記憶の中で再現またはでっちあげられる死者たちや十年前の一日の思い出、それらはそれら自身だけでなく、距離を同時に示している。例えば、

あのころ灯台といえば、おぼろに霞む白銀の塔で、ゆうどきになると、黄色い一つ目が不意にそっとひらくのだった。いま見るそれは――
(…)よく見ると黒と白の縞が入っているのも、窓がいくつかあるのも見えた。(…)そうか、これが灯台の本当の姿なんだな?

(三部・8)
また記憶の死者については次のように語られる。死者は内面にしか存在しない。それは共存在であることをやめてしまっている。

まったく、死者というのは。リリーは絵の構図になにか手詰まりを感じて筆を止め、ちょっと後じさりながら考え込んだ。ほんと、死んでしまってはねえ!リリーはつぶやいた。(…)死者は生者たちの意のままだ。たしかに奥さんの存在もいつしか薄らいで消えていった。リリーはそう思う。わたしたちはあの方の願いを踏みにじることもあれば、その偏狭で古めかしい考えも改善することもあるだろう。そうやってあの方は生者たちからどんどん遠のいていく。

死者は生者の思うようになる。少なくとも記憶の内部においては。しかしそうではない。必要となるのは、死者と向き合うとき、適切な距離である。そこにおいて適切な姿で物や人が現れるようなvision。死者や過去を存在しないものとしてあつかうのではなく、それらと現実に対話をするとき、(たとえば十年越しにかつてなじんでいた家に戻ってきて、そこで失った人をしのぶ時)彼/彼女との距離はきわめて重要になる。

以前は夫人のことを安心して考えられた。彼女は霊であり、空気であり、存在しないものであり、要するに、昼夜問わずいつでも気楽に戯れて危険のない相手だったのに、その相手が突然こうして手を伸ばしてきて胸を締め付ける。

(三章・5)
同じ問題はリリーの描く絵画にもある。絵画においても適切な位置、構図が必要だからだ。

どこから描きはじめるべきか?――それが問題だ。最初の一筆をどこにおくべきか?

(三章・3)
午前中を費やしたが、彼女は絵に納得がいかずに、問題は何か、と考える。彼女が描きたい絵。それは調和した絵だ。様々なもの、人

こうしたものが同じ感覚を共有し、ひとつにまとまっていたようだった。

というような。彼女は夫人との正しい距離を知る事が出来ない。調和に至るような距離。それは光景をうむ、光景以前のものだろう。

天啓のようなフレーズも浮かぶ。ヴィジョンも浮かぶ。鮮やかな光景。鮮やかなフレーズ。そうしたものがいくつ浮かんでも、本当に捕まえたいのは、ずばりこの神経に触れてくるもの、なにかの形になるまえのそれ自体なのだ。それを手中にとらえて、やり直したい。

だから、彼女の絵の問題、それが解決するのは、彼女がラムジー夫人との正しい距離を知ったときだろう。過去を折り開いた後リリーに訪れた、ある脱自的な瞬間とともに、気づけばリリーと夫人は適切な距離、関係で向かいあう。

すると、夫人が手控えでもしたかのように、この苦しみも静かに日常の経験の一部となり、椅子やテーブルと同じレベルに落ち着いた。ラムジー夫人はいま――リリーへのこのうえない優しさの一環だったのだろう――そこの部屋の椅子にただ座っていた。

(3章・11)
リリーとは反対に、ラムジー夫人は現在を平衡にたもっている。死者という理由だけでなく彼女の美(「美は人の生を不動のまま封じこめ――凍りつかせる。」3章・5)によっても、また日々のささやかな奇跡と光明をおよぼす才能によっても。

これが啓示というものの本質。混沌のただなかに、なにかが姿を現し、この絶え間なく移ろい流れていく世界が(…)突如として普遍のものになる。生がここで静止せんことを、そうラムジー夫人はいった。

(三章・3)
夫人の中では、過去はすでに静止したものだ。夫人が過去を回想するとき、過去はすべてが起こってしまい、つまりかつての楽しみ(やほかの感情)を再現するだけのものにとどまっている。

なにせ二十年前のことで結末はわかっているし、人生は今夜の晩餐会から先も、流れ落ちる滝のように行く末も知らず下っていくわけだが、追憶の中のひと幕はしっかりと封じこめられ、彼我の岸にはさまれた湖のように穏やかに横たわっていた。

(一章・17)
この部分と、十年の時が、一気呵成に流れ行く第二部を同時に考えてみてもよいかもしれない。

夫人はなにやら無常感をおぼえていた。すべてをきちんと秩序立てなくては。(…)
どれだけ長く生きようと、ふたりの心のなかに自分の存在が織り込まれてゆくだろうと思うと、夫人はすっかり気をよくした。

(一章・18)
夫人が夫人の秩序から(恐らく)はずれて残したことが、三部の主題になっていた。ラムジーと息子ウィリアムとのエディプス的な確執と、またリリーが未婚なこと。それらはどちらも、ラムジー夫人の行為が悪い影響を及ぼした、といえるかもしれない。それらの葛藤は、過去の正しいやり直しによって改善されることになる。灯台へゆくことによって、または、過去に誠実に向き合うことによって。

夫人は現在において調和、秩序、普遍を作り出し、そのまま過去へと送ってゆく。そこではわれわれは距離を考える必要はない。すでに調和がとれている。
それとは反対に、現在に現れ、調和を乱すような過去も存在する。そういった過去のあらわれ方は、強迫反復にも似ている。本作品では、そのさ中の希望が書かれているように思える。