サルガッソーの広い海:ジーン・リース

池澤氏の解説であらすじが書かれた部分は479-483。煩でなければ、当該の部分を参照してほしい。本作品では「ジェイン・エア」に登場するロチェスターの狂った妻、ロチェスターの家に火をつけ燃え死ぬ女バーサ(=アントワネット・Bertha Antoinetta Mason)の半生が「ジェイン・エア」を顛倒させたかたちで描かれている、というのも解説にある。
本小説での狂気はおそろしい。端的に狂気は社会が生み出していて、しかも彼らは自らが生み出した狂人への無理解というてんで徹底している。


アントワネットが住んだ家が燃やされた後、母親が狂ってしまうこと。火事の晩のピエールの死だけでなく、410ページでアントワネットのばあやのクリストフィーヌが語ったような理由もある。ついに「彼女は諦めてなにも気にしなくなった」。うちのめされ、自己像や環境に期待をもつのをやめた人間と狂人をどう区別できるだろうか。彼女はクリストフィーヌ以外のみなから狂人と呼ばれつづける。狂人の母といううわさは、後にダニエルの密告の手紙でも利用される。狂人という形象は効率的に利用される。

アントワネットはロチェスターを愛している。それは生死に関わるような愛だろう。

「あなたに会う前は生きていたいと思わなかったの。いつも死んだほうがましだと思っていたわ。そう考えなくなるまで長いことかかったわ」

(343)
この愛に彼はこたえられない。「彼女を愛してはいなかった」逆に
ロチェスターはアントワネットに死ね、といい、アントワネットはそれを受け入れる、というごっこ遊びを二人は行う。アントワネットは幸福にたえられない、幸福が恐怖だからだ。
ダニエルからの手紙が届き、アントワネットのコズウェイ家は狂人の家系であると密告される。この手紙は彼が心の底で望んでいたものだった。ともあれそれを発端として、ロチェスターは当地やアントワネットたちへの偏よった信念を自ら選んでゆくことになる。彼女をバーサと呼び出したのは、アントワネットが彼女が彼女の母から受け継いだ名前だと彼が知ったから(366)。そして別のだれかに彼女をしたてあげようとする魔術(399)。もっと、池澤氏によれば

ここでロチェスターが妻をいきなりバーサと呼ぶのは、(…)異国人の妻を強引に自国の中に引き込むためだった。アントワネットというフランス風の名、つまり母のアネット(これもアントワネットを縮めた名)がフランス領のマルティニークの出身であることを示唆する名を、彼が忌避したということである。

(482)
またクリストフィーヌはロチェスターがアントワネットを「マリオネット」人形と呼んでいると責める。

「こんなもめごとの最中に、あんたは彼女をべつの名前で呼び始めたらしいね。マリオネット。そんな名前で」
「そう、たしかにそう呼んだ」
「それは人形って意味だね?つまり彼女が口をきかないからだ。あんたは彼女を泣かせよう、しゃべらせようとした」

(406)
人形は口をきかない。同時に思うように操ることができる。アントワネットは、口はきかないけれども、完全に人形ではない。欲望が名づけに無意識に表出したのかもしれない。一般化して支配よく、といってしまえば早くに描写がみられた。

彼女の意識はすでにできあがってしまっていた。(…)彼女の固定観念は決して変わらないだろう。
僕の話は彼女に何ひとつ影響を及ぼさなかった。
それならば死ね。眠れ。ぼくが与えられるのはそれだけだ……彼女はどんなに死に近いところにいるか気づいたことがあるんだろうか。僕の言う意味ではなく彼女の意味で。それは安全なゲームではなかった――あの場所では。

(347)
また

ぼくの狂人。くるってはいるが彼女はぼくのもの、ぼくのものだ。

(419)
むしろ狂った彼女を彼は必要としたのだろうとおもえる。他人を狂人とみなすことなしに、所有を信じることは不可能だからだ。
おなじように、クリストフィーヌの批判を、彼は彼女をいわゆる守銭奴とみなすことで回避する。「「お金」といったとき怒りがにじんでいた。このくだらない長話の焦点はそこだったんだ、とぼくは思った」(411)
彼は彼女を所有することに成功するが、その代わりに彼女を失ってしまう。レトリックではなく、文字通りの意味で。

彼女はぼくを渇いたままほうり出し、そのせいでぼくは見つける前に見失ってしまった物を求めて渇き続ける人生を送ることになるのだ。

(425)
(狂人の話を人は聞くことがない。というか、話をきかれることのない人間が狂人とよばれるのだろう。人を狂人として扱うとき、すでにその人間との理解の可能性は失われてしまう。良かれ悪しかれ


続く第三部はその短さの中に小説中の殆どの要素が収斂されて、円環をなすように閉じられる。この上なくきれいに小説は終わっているにもかかわらず、同時に何かが足りないような気もする。どこかが間違っているような気もして、それが指摘できないような感覚かもしれない。その円を辿りなおすごとに、様々な線が浮かび上がってくるような小説だろう。「何度読んでも終わらない話にはこうして次々に新しい読みの可能性が生じる」(483)。